「土橋重治宛光秀書状」原本発見により「本能寺の変」の背景、光秀の政権構想を解明

2017.9.29

藤田達生(三重大学教育学部教授)は、2017年5月から美濃加茂市民ミュージアム所蔵「(天正10年)6月12日付土橋重治宛光秀書状」の調査を実施し、記載内容・料紙・筆跡などから、明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた手紙の原本であると結論付けた。同史料は東京大学史料編纂所架蔵影写本「森家文書」所収の写し(手書き)が存在していたが、原史料の発見は初である。 光秀による「本能寺の変」発生の動機はかねてより不明であり、主君信長が隙をみせたため天下をねらったとする「単独謀反説」をはじめ、様々な説があった。しかし本調査により、短絡的・突発的な動機ではなく、「将軍足利義昭を奉じて室町幕府を再興する」という明確な政権構想の下、クーデターに臨んだと結論付けた。(本史料の紹介は、10月刊行予定の『織豊期研究』19号に掲載予定)

① 「(天正10年)6月12日付土橋重治宛光秀書状」が、本能寺の変以降の確実な光秀書状であることが明らかとなった。
② 光秀自身が天下人を目指したのではなく、義昭の帰洛による室町幕府再興のためにクーデーターを起こしたことが明らかとなった。
③ 本能寺の変間際まで、光秀は長宗我部氏と信長との戦争を回避するべく奔走したが(「石谷家文書」)、同時にかつての主君である将軍義昭との関係を復活させていたことが判明した。このことから本史料は、「石谷家文書」の発見(2014年)により注目された長宗我部氏の窮地を救うべく本能寺の変を起こしたとする「四国説」に、長宗我部氏や毛利氏が奉じる「義昭の帰洛による室町幕府再興」という新たな視点を加える内容である。

※「四国説」とは:天下統一の最終段階にあたり、織田信長の西国支配方針が豊臣(羽柴)秀吉と三好康長の派閥を中心とすることが決定した。このことは長年にわたって四国政策を担っていた光秀と長宗我部元親の派閥の敗北を意味し、更に長宗我部への攻撃まで計画されることとなった。これについて、2014年6月23日、岡山市の林原美術館にて「石谷家文書」(全3巻)が発見され、(天正10年)5月21日付書状中で長宗我部氏は信長に対する不満を吐露している。かねてより藤田達生は、本能寺の変は光秀の個人的な理由による「単独謀反説」ではなく、織田政権の専制化が招いた重臣間の派閥抗争の帰結とした「四国説」を提唱していた。

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三重大学 教育学部 社会科教育
教授 藤田達生(Fujita Tatsuo)
専門分野:日本近世国家成立史の研究
現在の研究課題:日本中世・近世移行期の国家像を、織田・豊臣・徳川政権論から追究する。
        あわせて江戸幕府の確立過程を、藩の形成から論じる。

【参考】
教員紹介ページ(藤田達生)http://kyoin.mie-u.ac.jp/profile/2361.html

※本内容は平成29年9月12日(火)の報道解禁でプレスリリースを実施しました。