- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

人の価値観のあやふやさ

30年近く前にオーストラリアの西海岸、インド洋に面したパースに留学した。この時パースの町の美しさに惹かれた。世界でも有数の美しい街で、オーストラリア人でさえ住みたがる都市である。スワン河畔に程よく整備され、気候にも恵まれている。夏は暑いが乾燥しているため不快ではなく、冬も寒くない。そんな街をじっくり観察すると、電柱のないことが街並みのすっきり感のもとであることに気づいた。これが都市のあるべき姿と認識し、日本もこうあるべきと強く感じたものである。日本の都市も少しずつではあるが電柱が消えつつあり、それとともに町並みがすっきりしてきている。しかし、電線を地下に埋め込むことは、地震が多発する我が国ではいざという時の回復が遅れるリスクを負うことになるらしい。その上、何処へ行っても同じようで、古くから残されたそれぞれの特徴を失ってくる。ヨーロッパの古い町は狭い路地や石畳のガタガタ道がいたるところにあり、そこを人が横になって進み、小さい車がゆっくり走っている。生活するにははなはだ不便であるが、余裕を持って実にゆったりと暮らしているようにみえる。

「人間は豊になれば幸福になる」わけではないし、幸福のために豊かさは必須か? 有るにこしたことはないが、なくても十分に幸せになれる。便利さも同様である。便利にこしたことはないが、それがなくても十分に生きていける。現代の日本は豊かで便利な社会であるが、幸福感が高いかというとそうでもない。幸福度の基準として、所得、医療、平均寿命、教育、社会保障、雇用や老後の安全性、などが考えられる。北欧が多くのランキングで高位に来ているのは、そのためであろう。デンマークの消費税は25%であり、税金負担は80%にも達する。それでも人々は幸福と感じている。日本と韓国は上記の社会的尺度でいえば、幸せでなければならない。それにもかかわらず、なぜ人々はそんなに自分を不幸だと考えるのであろうか。日本や韓国では社会の競争、たとえば受験競争が激しくて、それがストレスとなり幸福と感じないのでは?との分析がある。社会の競争ではアメリカがはるかに激しいようにみえる。日本ほど社会制度上平等で自由な国はない。それでも個人個人は自由で平等とは感じていない。働くことが社会参加であり、それを最上の美徳とする呪縛から、一方では逃れたいと願いながら、また一方ではその快適さに埋没している。ラテンアメリカの国々の人々が、所得などから見て予想されるよりは、相対的に幸福であるのは、楽天的な国民性によるものであろう。病は気からというが、幸福も気からという側面を無視することはできない。

生き物と自然の連関に学ぶことは多いし、われわれヒトの価値観では測れないものが多くある。花や樹木は自然の中で生かされ、育てられている。この季節、そばの名産地ではソバの花が咲き乱れている。見た目には美しい白い花であるが、人々には不快な異臭を放つ。そばはイネや麦と異なり別の個体の花粉でないと受粉できず、それさえも容易でないとのこと。そのため強烈な臭いを放ち、虫たちを集めなければ自らの生存が望めない。「人間にとっては臭くても、虫にとってはごちそうの香り」である。

市場原理主義者である多くのエコノミストが高等教育機関、特に国立大学をどのようにみているか? 社会的利益を生むと考えられる研究活動には補助をする必要があること、それに低所得者で教育費の借り入れができない学生への支援以外は国家は関与すべきでない。そして、それ以外は市場メカニズムや競争原理に委ねるべきと主張する。この価値観にほとんどの大学人は反発する。教育に競争が必要でないとは言わないが、競争に敗れた人たちをいかに再生させるのかが教育の本質であろう。それは別のセーフティーネットを作ればよいというかもしれないが、大学とはそれらすべてを包含したところである。

指導者に求められる資質で我が国で必ず登場してくるのは、決断力、実行力、判断力などであるが、その通りであるが漠然としすぎて解りにくい。これをイタリアでは知力、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志と教える。後者のほうがはるかにわかりやすく、自らの課題としても取り組みやすいように思うが、皆さんは如何?この閉塞した時代を打ち破るために、状況を変えることに志を抱く多くの人財の輩出を望んでいる。