- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

ありがとう

 300万人以上の人々が戦塵、戦禍に倒れた先の太平洋戦争の開戦が12月、終戦が8月、それに東日本大震災の3月は人の運命や死について考えなければならない月となりました。まさに鎮魂の月です。亡くなる患者さんに直面したとき、本人にとっては連続した事象でどこからが死の瞬間であるかの認識はありません。それを感じる時間はあくまで看取る人々での意識です。死を迎えるまでのある一定の時間はどの人にとっても人生最大の戦いです。病の苦痛や心の葛藤にある時は疲れ果てますが、その戦いを乗り越えた所に心の安らぎがあるでしょう。ほとんどの全ての人がその気持ちに到達すると信じています。しかし、それが瞬時にくるとき、人は何を考え、感じるのでしょうか。

 最期を自宅で迎えたいと願う人は決して少なくないとの調査があります。しかし、それを実現することは簡単ではなさそうです。2004年の統計によれば自宅で死を迎えることができた人はその年に亡くなられた人の15%以下に過ぎないとのことです。その後、この傾向は益々強くなっているとのことです。今から60年近く前の1953年には、在宅死は88%でしたので、その比率はまったく逆転したことになります。死が常に隣り合わせの存在の時代から、医療従事者以外の人が真の死に接する機会が極端に少なくなっています。映像や画像で映し出されるバーチャルな死は氾濫していますので、ますます現実感の乏しい遠いものとなっているのが現代社会です。しかし、東北地方の多くの人の上に、ある日突然に死が実態感をもって迫ってきました。そして、われわれ日本人全体に「生と死」「不条理」「宗教」「絆」「我慾」などについて考えることを突きつけてきました。日本の社会が一段と成熟した社会に成長するために必要なプロセスです。

 病院死から在宅死へ大きく転換するために、2006年新たに在宅療養支援診療所制度が導入されました。この制度を在宅医療の切り札のように思われていますが、現状は厳しそうです。ある地域では制度導入後、在宅医療にかかわる診療所の数が増えるどころか減少していますし、支援診療所の届け出も全診療所の10%以下にとどまっています。これは、一般開業医が在宅にかかわるハードルを高くした(24時間体制の維持)ことで、かかりつけ医として在宅で看取る意識を持った良心的な医師達が在宅医療から離れてしまうという逆の結果となったのではと考えられます。患者さんや家族は在宅療養で精神的、肉体的さらには経済的不安や負担を感じることが多いはずですので、生活面をも含む支援システムの充実が不可欠です。医療費削減が先にありきの在宅療養の支援では国民は納得しません。人が家族に囲まれながら心安らかに最期を迎えられるためには何が必要かを真摯に考え、そのことを十二分に関係者に理解を求めた制度設計でなければ絵に描いた餅に終わります。 

 骨肉腫のため自宅で両親や兄弟に見守られながら息を引き取ったS君のお母さんより手紙をいただいたことがありました。終末期になって在宅でケアをするかどうかについてご両親もわれわれ医療者もずいぶんと悩み話し合いました。確かに疼痛緩和についての進歩は著しく痛みに苦しめられることはほとんどなくなりましたが、どうしようもない全身倦怠感や呼吸困難感を取り除くことは困難です。死や改善しない症状に対する恐怖心や不安感を確実に和らげるすべも知りません。在宅ケアはみんなにとって不安の中はじまりました。S君の住まいは大学病院からは遠く離れているため、われわれが頻回に訪れることができず、悪い条件ではありましたが、私の友人のN医師がS家の近くで開業していたことが幸いでした。N医師は診療終了後往診をしてくれました。状態が悪くなってからは一日に何度となくS家を訪れてくれました。彼の献身的な行為に支えられた在宅医療でした。

 母親の手紙には、家族に“ありがとう”の言葉を残して、弟、妹それぞれの名前をしっかりと呼び“がんばれよ”“ありがとう”と力強い口調でした。その言葉を聞いて心が洗い流される思い、全てが氷解する感じでした。“みんなありがとう、他のみんなもありがとナ”が最期の言葉でした。8月の退院から家族は何が彼のためにベストであるか試行錯誤の毎日でした。反省点はアレもコレもと思いはありますが家で看取るということがこんなことなのかと、こんなにも満足を与えてくれるものかと実感しました。十分な看護はできはしませんでしたが、どんな時も息子の心を素直に受け入れられたという充実感があります。(中略)9日(死の前日)彼はすごく不安に死を恐れている様子でした。“いつまでもいっしょ、みんな一樹といっしょだから”と手を握りいい続けることが、あんなに口をついて自然にできたことは、今となってはその意味するところが私自身に大きくかえってきました。先生ありがとう。一樹は永遠に私たち家族といっしょにいます。先生にお手紙書けたことで、私は一つ長いトンネルを通り抜けたように思います。

彼の死から1ヵ月後の手紙でした。また手紙の中に医療者たちの医療に対する情熱を感じたから信頼してついていこうとも記されていました。われわれにとって何にも勝る言葉です。

 家族の絆の強さを教えられました。決意した人たちの強さと優しさを知りました。親子の絆、夫婦の絆、家族の絆、コミュニティーの絆、日本人の絆が東日本大震災に打ちのめされたわれわれの再生のキーワードです。