- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

想定外

 人生は想定外の連続でしょう。だから面白い。それも自らが強い意志で決定したというよりは流れの中で進んでいくというのが私の実感です。ただただ大切なことはどのような状況で決定したかではなく、決めた以上はそれが正しかったと信じて成果を得るために最大の努力を重ねることでしょう。

 中学校までは当時の多くの少年と同じように野球少年で、当然プロ野球選手を夢みていました。身体も小さかったので早々にその夢をあきらめて高校では野球部には入りませんでした。学校は違いましたが甲子園の優勝投手の尾崎将司氏(西鉄ライオンズからプロゴルファーとなり大活躍をした)と同じ学年です。彼の高校と私の高校が県予選の1回戦で対戦しました。大きな体から投げ出される速球は眼にもとまらぬ勢いで、とても打てる気はしませんでした。当然われわれの高校はコールド負けでした。この時は野球で大成するには努力だけでは越えがたい壁あるのを実感しました。その他のスポーツや音楽、美術などでも同じでしょう。持って生まれた才能が大きな要素になり、それに血のにじむような努力が加わって花が開くのでしょう。ほとんどの職業は才能などはなくても努力することで報われます。

 医学部の学生時代に整形外科学に強い興味を抱いていたわけではありません。当時はどちらかというと経験的治療学が主で、論理性に乏しい学問分野と感じていた私にとっては面白くない分野でした。しかし、わたしが選ぼうとした外科講座に希望者が集中し、調整をしなければならなくなりました。いささか不謹慎ではありますがクジ引きかじゃんけんで決めるしかないところまで追いつめられました。ポリクリ委員の一人だったのでその抽選に加わるわけにもいかずに、同じ学年で誰も希望者がいなかった整形外科医を目指すことにしました。この時の選択は受け身的でしたが、その後の整形外科学の躍進をみるとき、将来の展望を見据えた素晴らしい選択をしたことになるでしょう。

 整形外科の研修を大学病院や関連の病院で楽しく続けましたが、卒後5年頃では何か物足りなさを感じるようになっていました。いつかは故郷の田舎で父親のあとをついで地域医療に貢献するつもりでしたので、若い時にしかできないことへの思いはつのりました。それを基礎研究に求めました。私たちの時代は臨床講座では大学院をボイコットしていましたので、ある先生の薦めで歯学部の生化学教室の研究員となり骨・軟骨代謝の研究をはじめました。そこで臨床とは違った基礎研究の厳しさを知りましたし、多くの先生、友人の知己を得たことはその後の私の考え方に大きな影響を与えてくれました。これも自分にとっての重要なターニングポイントであったと思っています。

 その後、埼玉県所沢の防衛医大に赴任することになりました。この時も大きな目的があったわけでもなく、上司から東京の大学病院に行きませんかと声をかけられ、花の東京へと喜び勇んだことを記憶しています。当時の多くの関西人は東京も神奈川も埼玉も千葉も同じと感じ、一方関東の人が大阪も京都も神戸も奈良も和歌山までもが同じ所と思っていたふしがありました。しかし、所沢に赴任してみると、「秩父おろし」が吹きすさび、赤土を巻き上げる、まさに西部劇に出てくるような荒野でありました。

 もともと田舎育ちの私ですから住めば都です。そこで8年間を過ごし、昭和60年の9月に母校の整形外科に帰ることになりました。この時ほど決断に迷ったことはありません。臨床や研究は順調で、先輩、同僚、後輩にも恵まれ、何よりも真摯で礼儀正しく、その上使命感に溢れた優秀な学生達との触れあいは実に爽やかで楽しいものでした。そんな居心地のよいところからなぜ移ったかと聞かれると、新しい刺激や展開が欲しかったからとしか答えられません。 大阪へ帰ってからしばらくは苦労の連続でした。後で知ったのですが、あまり望まれて迎えられたのではなく、その上これまであまり経験のない骨軟部腫瘍が私に与えられた課題でした。自ら選んだ道ですので、「成功するんだ」との信念での38歳の新たな挑戦でした。私よりもはるかに若い助手(現在は助教)や大学院生にがん化学療法や新しい腫瘍切除術の手ほどきを受けました。目の前の病に苦しむ子ども達を見ると、年下に指導を受けることが屈辱とはこれっぽっちも思いませんでした。それまでの整形外科医としてのあらゆる分野での経験が役立ったことは言うまでもありません。

 大阪で10年、40代も後半となり、そろそろ自分の家を持たなければと思うようになりました。その頃には父親の診療所は弟が継いでくれることになり、終の棲家を大阪に構えることにしました。家が完成して6ヶ月、三重大学への赴任が決まりました。世間でよく揶揄される「家を建てると転勤するぞ」はその通りとなりました。三重のことを妻に相談していなかったこと、赴任が決まった日にも帰宅してから話せばよいとのんびりかまえていたのが間違いでした。教授夫人や私の妹から先に電話で連絡が入り、寝耳に水の妻の驚きは相当なものでした。私が帰宅したときには彼女の怒りは最高潮に達していて、冷たく、厳しく、憎しみに充ち満ちた言葉での出迎えでした。今でも、その時の妻の眼差しを思い出すと寒気が走ります。その所為だけではないのですが、三重でのはじめの1年間は単身赴任をすることになりました。

 この頃からの私は「僅差の男」となりました。三重大学の教授選考では、大学始まって以来の大接戦で1ヶ月間に10回を越える投票を行ったと聞いています。本人には結果だけが知らされますので、途中経過については後に先輩の教授より知らされ驚いた次第です。病院長に選ばれた時も、学長に選任された意向投票でもビックリするほどの僅差でした。候補者の優劣がつけがたい環境で選ばれたことは通常以上に緊張感が高まり、優れたリーダーとならなければとの思いが強くなりました。

 現在私があるのはいずれの時も私を真から支えてくれた先輩、友人や後輩とのつながりの賜です。どのような中でも最大の努力を惜しまず、多くの友人を持ってください。