- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

日本の最も長い月―8月

 東アジア、特に朝鮮半島に暗雲が漂っています。「蛮行許すまじ」の強いながれですが、独裁国家の悪政に翻弄され苦しむ多くの国民を考えると心が痛みます。悪政に手を貸すことなく、飢えや貧困にもがく国民を救う手だてはないものでしょうか。現在でも世界中の至るところで局地的戦闘が行われ、多くの人々が戦禍に倒れています。そして、兵器は益々先鋭化し、殺戮の凄惨さは増すばかりです。こんな人間の行動をみるとき、数百万年の間にわれわれは本当の進化を遂げたのか疑問を持たざるをえません。高度な文明は物質的な豊かさや便利さを作り出してくれましたが、人間としての本来求められるべき心の満足がえられているのでしょうか。知能、技術に加えてコミューニケション力を発達させ、「仲間であること」、「ともにあること」を行動規範の根底として進化を続けてきたことを思い出すべきでしょう。

 今から70年以上前に日本は日中戦争さらには太平洋戦争へと突入しました。戦争を知らない世代が大半を占める現在、その悲惨さ、集団の規律に強制的に縛られ自由を奪われることの苦しさや死への恐れを深く記憶にとどめ、2度と戦争をしないことを誓わなければならないでしょう。1945年8月に敗戦となり、その後この月は誓いの月です。三重県でも多くの命が失われました。軍人・軍属の戦没者は約46,000人、一般県民の戦死者は約3,600人で、併せるとおおむね50,000人と記されています。当時の人口が約120万人ですので、4%強に当たります。特に、終戦直前の昭和20年6月と7月の空襲では津市街地の大半が焼失し、焼失率は全国一だといわれるほど凄まじいものだったと記録されています。私の先輩も津城の堀の水中で恐怖に震えながら空襲の終わるのを待ったと述懐しています。
 三重大学も多くの被害を経験しました。教育学部の前身の師範学校、生物資源学部の高等農林学校の学生は学徒出陣で戦地に赴きました。ある学年では半数近くの学生が戦死しました。特攻機で沖縄の海に散った学生もいました。三重大学医学部の前身である県立医学専門学校も空襲で10名以上の教職員・学生が命を失い、附属病院の大半が消失しました。戦禍の中、教職員と学生が一丸となって授業再開に奔走し、国民学校の空き校舎を借りて実現します。教室に机はなく、床に座っての講義でしたが、教える側も教えられる側も真理の追求への目的に向けて一体となったと記されています。復興への足取りの中に現在まで脈々と続く三重大学の精神的バックボーンが醸成されます。それは教職員、学生の「絆(きずな)」です。その佳き伝統を認識してさらなる発展に繋げていって欲しいと願っています。

 伊勢市に生まれた詩人竹内浩三さんは昭和19年に太平洋戦争の激戦地であった南方戦線で戦死します。23歳でした。もっともっと多くの詩作を願っていたことでしょう。そのために人生の喜怒哀楽を経験したかったことでしょう。彼の詩はそのときどきの心の動きを技巧に走ることなく実に素直に詠んでいます。竹内さんが戦争に召集された年に書いた「骨のうたう」という詩には、戦争という愚かな行為で自らの命を遠い他国で失わなければならないことへの悲しみを直接的に表現しています。自らは遠い南の戦地で命果てるとも、骨はいつまでも残るから、そこから聞こえてくる詩に耳を傾けて欲しいとの願いの題名でしょうか。整形外科医の私は生きている人間の骨からも亡くなった人の骨からも聞こえてくる叫びを必死になって汲み取ろうとしました。それが良い治療に繋がると信じたからです。

 「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ 遠い他国でひょんと死ぬるや だまってだれもいないところで ひょんと死ぬるや ふるさとの風や こいびとの眼や ひょんと消ゆるや」(中略)
「ああ 戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ こらえきれないさびしさや 国のため 大君のため 死んでしまう その心や」

 わが思いを骨にしか託すことができない寂しさを「こらえきれないさびさや」と詠います。

 涙を誘う悲しい話の中にも嬉しいこともありました。津市西丸之内に戦禍の中にもたくましく生き続けているいちょうの木です。23号線三重会館前の交差点を西向かって進み、市役所を過ぎると左手に大きないちょうの木が張り出して見えます。樹齢約450年の古木で藤堂藩の武家屋敷内にあったようです。昭和20年7月の空襲で丸焼けになりましたが、翌年奇跡的に青い芽が吹き、周囲の人達に大きな希望を与えます。その後、何度も伐採されそうになりますが、それも免れ今に続いています。
 いちょうの木は幹が空洞になろうが、風で倒れようが、雷に打たれようが力強くよみがえり、自然の中でそびえ立っています。逞しいものです。われわれも失敗の中に希望を見つけ、挑戦する心を持ち続けなければなりません。