- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

福島訪問

 先日、福島市を訪問した。東日本大震災とその後の原発被害のため不眠不休で対応に当たっている福島医大の学長である友人を見舞うと共に現状の視察が目的である。朝7時30分に津を出発し、名古屋より新幹線を乗り継ぎ、大学に13時30分に到着した。6時間の長旅である。日帰りが可能な時間ではあるが陸路700kmは我々の感覚では実に遠い距離である。しかし、原発事故となると世界の見る目は異なる。チェルノブイリ原発事故では1,600km以上離れたスエーデンでも高濃度の放射能を測定したことを考えると700kmは短いとも言える。

  新幹線の中からの見るかぎりでは、福島の地震被害はそれほど甚大とは思えない。屋根の青色ビニールシートの数はチラホラであり、電車も徐行なしに疾走し、時間通り福島駅到着。しかし、福島市の駅前の人通りはほとんどない。県内第3位の人口規模と津市と極めてよく似た位置づけにあるというのに。昼過ぎの津市駅前でももっと多くの人で賑わっている。これも原発事故の影響で、住民の外出も少なく、観光客も皆無とのことであった。

 理事長兼学長の彼は地震当日東京に出張中、急遽タクシーで帰学。高速道路閉鎖のため一般道を走るも地震のために道はガタガタに寸断されていて6時間以上も要した。病院に着くと直ちに1病棟(約50床)を空けて重症患者の受け入れを準備するも、ほとんどが津波による死亡で救急対応の患者さんは極めて少ない状況であった。停電はなかったが断水が1週間ほど続き、病院機能の大きな障害となった。700床規模の大学附属病院の1日の使用水量は約1,000トンと極めて大量であり、自衛隊などの給水車だけでは不足気味であった。特にヘリコプターで搬送される多数の透析患者に対して、十分な対応ができずに東京への再搬送を余儀なくされた。このことは広域あるいは地域での情報ネットワークあるいは搬送や輸送システムの構築の重要性を教えてくれている。

 この2ヶ月以上に渡る友人のすばらしいリーダーシップと勇気に心より敬意を表する。

 自らの三重大学病院はどうだろう。電気は自家発電で3日、水は井戸水で一部対応可能ではある。練習船勢水丸の海水淡水化装置にも期待がかかる。

  福島市でも大震災発生後のガソリン不足は深刻となった。病院スタッフの通勤に自家用車が使えなくなり、業務に支障が出てきたが、自衛隊による給油で何とか持ちこたえることができたとのことであった。

 被災者への食料などの支援物資が届きだしても、病院や行政などの現地支援者への物資の供給はなく、学長自身もおにぎりだけで10日ほど過ごさなければならなかった。被災者優先であることは言うまでもないが、自らのことよりその救援に全力で立ち向かっている皆さんもまた別の意味の被災者である。その支援体制も重要である。

  残念なことも耳にした。私立の某病院では震災当日の当直の医師が無断で仕事場を離れ、家族とともに東京方面に移動し、その後1週間ほど病院に復帰しなかった。放射能汚染を心配しての行動であろうが、家族のみを帰すか、それが不安であれば、翌日に院長の許可を得て連れ帰り、自らは直ちに引き返し診療に従事するのが医師としての勤めであろう。今こそ自己中心の欲望から離れて、誰かのために行動する精神を伝えなければならない。特に、医療に従事するものは。しかし、ほとんどの医療従事者は使命を果たすために自らの危険を顧みず行動したのは、自衛隊、消防隊、警察などの皆さんと同じである。心より「ありがとう」の思いを伝えたい。

  福島市の放射能測定量は3月15日に24マイクロシーベルトと高い値を記録した。これは福島第1原子力発電所より東南の風に乗って約60km離れている福島市に達したと考えられる。その後の測定値は徐々に低下しているが、現在でも市内の場所によっては1時間あたり1.2~1.4マイクロシーベルトと高くなっている。これ以上に上昇することなく、できるだけ早く基準値内戻ってほしいと強く願っている。

 福島市周辺には多くの観光地がある。今でも観光客は戻ってきていない。飯坂温泉、土湯温泉などには宿泊客はなく、倒産する宿も出てきている。現在は3食付きで1日  5,000円で被災者を受け入れてくれている。この好意には心より感謝したい。

  昭和45年(1970年)に書かれた吉村昭氏著「海の壁」が文庫本となり「三陸海岸大津波」として書店に並んでいる。明治29年と昭和8年の大津波に被災者の悲痛な叫びと、それに負けることなく戦い続けた人々の姿を記録した本である。この地域の人々は繰り返し大津波の被害に遭いながらも、いつも不死鳥のごとくよみがえってきた。三陸海岸に生活する人々の苦難に立ち向かう闘志と力強い勇気の結果である。今回の大津波被害は想像を超える甚大なものではあるが、数年後には穏やかではあるが必ずや活気ある人々の営みが戻ってくることを信じている。

 そのために三重大学は全学を挙げての協力を惜しまない。