- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

紀伊半島

 皆さん、紀伊半島の南岸を回廊する紀勢本線がいつ全線開通したかご存じですか。今から52年前の1959年(昭和34年)7月、尾鷲の西に位置する三木里と新鹿間が開通して全線がつながりました。それまでは尾鷲と熊野を結ぶのは矢ノ川峠越えのバスしかなく3時間ほど要していました。一歩間違えば崖下に転落する難所を通過するバスで、恐怖と酔いの苦痛の数時間だったとのこと。そのため、熊野の人は三重県庁を訪れるのに紀勢本線で和歌山、阪和線で大阪天王寺へ、そこから難波に出て、近鉄で津まで来ることが多かったようです。早朝に出発して夜に津につき一泊し、翌日仕事を済ませてその日の夜遅くに帰宅することになるとのことでした。仕事が少し長引くともう一泊しなければならなくなったようです。まさに大旅行の県庁出張でした。私も20数年前(当時は阪神間に住んでいました)、東京出張の帰りに、那智勝浦町で開業している友人の父親の葬儀に参列するため紀伊半島を一周したことがあります。前夜名古屋で一泊し、早朝に紀勢本線で勝浦に向かいました。(本来の紀勢本線は亀山駅から和歌山駅までですので、正確には関西本線から伊勢鉄道線経由となるのですが)葬儀が終わると今度は和歌山市経由で自宅に深夜帰り着きました。これも疲労困憊の大旅行となったこと言うまでもありません。紀伊半島は鉄道が開通しても遠く長い道のりであることにはかわりはないようです。それでも三重県の北と南が繋がり、一つになったことにはかわりはありません。一つになることが大切です。

 数年前に三重大学と和歌山大学の連携協議のため和歌山市を訪問しました。紀伊半島というしばりでは隣接県ですが、時間的には遠隔地に相当するでしょう。和歌山大学までは大阪難波経由で4時間近く要しますので、東京へ行くより時間がかかることになります。大都市を中心に放射状に交通網が整備されているため、隣接しているとはいえ地方都市間を行き来するためには恐ろしく時間がかかるとの声をいたるところで聞くでしょう。紀伊半島連携地域活性化には東海南海連絡道(半島横断道路)の早期開通が必要との声もありますが、その利用度からすると現実離れしている構想でしょうか。
 和歌山大学で気を引いたのは図書館に付設された紀州文化博物館でした。徳川紀州藩時代の地図、書物など貴重な展示が印象的で、地図には現在の三重県内に石高18,5千石を有し、松阪城代に仕置きをさせていたことが克明に記載されていました。実に55万石の3分の1が三重県に存在していたことになり、藩主の参勤交代も江戸時代前期は和歌山街道を利用して松阪に至り、そこより渥美半島までの海路が利用されていたようです。また、松阪の小児科医で国学者の本居宣長が紀州藩主に呼び出された時もこの街道を使ったとのことです。現在の県境には高見峠があり、トンネルが開通する以前は健脚でも険しい道でした。学生時代何度も台高山脈を縦走しましたが、難所続きでバテバテとなったことを記憶しています。こんな道を大名行列が通ったとは信じがたいことですが、三重と和歌山との結びつきは今よりもはるかに深かったと思われます。

 医師になって研修時代の昭和49年に紀伊半島の先端に近い那智勝浦町立温泉病院で約1年間勤務しました。当時は大阪から電車で5-6時間、車では10時間以上かかる現代的表現ではまさに僻地ですが、温泉があり風光明媚なためその当時は新婚旅行客も少なくありませんでした。70歳以上の皆さんで新婚旅行は南紀の白浜、勝浦だったことを想い出す方もいらっしゃるでしょう。車の後部座席に衣服と本を詰め込んでの赴任で、勤務初日に町内一斉放送で歓迎してくれました。仕事が終わると毎晩のように町内の温泉ホテルに出かけ支配人にタオルを借り温泉に浸かり、その後ビールや夕食をご馳走になりました。そのお返しは夜中に急病となった温泉客の往診でした。この温泉病院での経験がその後の自分を高めるのに大いに役立ったと実感しています。病院に老年の産婦人科医が一人で勤務していましたが、その先生に私はどういうわけか気に入られ、休日によく帝王切開の手術を手伝いました。血性の羊水で下着が真っ赤となり手術場に捨て、下着なしで帰宅したことも懐かしい思い出です。当直の夜、頭蓋骨陥没骨折の患者が運び込まれ、外科医が誰もいなかったため、最初は一人で手術をする羽目になり、恐怖心でふるえながらの執刀でした。終わるころに外科部長が現れ、それで良いよと誉めてくれたことでホッとして腰が抜けそうになったのも今では笑える話となりました。30年以上前ですので、現在とは医療の背景は大いに違っていますが、人の心は変わっていないはずです。どこにいても、いつでも仕事に全力を尽くすことが新しい展開を生み出すことを忘れないでください。

 熊野古道の一つ、中辺路の思い出も鮮烈でした。熊野本宮の湯ノ峰温泉から田辺までの山道を車で走りました。昭和49年当時は一車線の崖道地道で、対向車が来るたびに待避場所までバックしなければならない恐ろしい道です。田辺に近づくと峠があり、その頂に立つと突然眼下に上富田の町並み(現在の田辺市上富田町)から田辺湾が実に鮮やかに開けていました。恐ろしい道を抜けたとの安堵感の中のその絶景はまさに絵の世界で、桃源郷を思い画きました。いにしえの京雅人も同じ思いをしたと確信する光景でした。その素晴らしさを家内にも見せたいと数年前に再度挑戦しましが、今は2車線の舗装道路とトンネルで、あっという間に田辺に到着し、峠の痕跡すらみえず昔日の面影は全くなくなっていました。素晴らしい景色を見せてやると大見得を切った家内への威厳失墜の一瞬です。
 富や便利さが人の心を豊かにするわけではありません。努力して手に入れた成果がその人を向上させることを意識してほしいと願っています。