- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

戦争と平和

 太平洋戦争後65年が経過し、戦後という言葉が死語になりつつあります。日本人は「忘却の民」と言われることがあるくらい過去を忘れることが得意な人が多いのではないでしょうか。高度経済成長時代は過去など振り返ることなく前に前に走り続けることでよかったのでしょうが、経済成長が多く望めない現在の状況の中で「よりよく生きる」ためには後ろを振り返ることも必要でしょう。
8月になるとテレビは「戦争の傷痕」を画きます。今年も例外ではありません。
学徒出陣、原爆、シベリア抑留と極限におかれた人間像を赤裸々に画いた秀作が放映されています。戦後生まれの人口が75%を超えている現代社会に住むわれわれに戦争の悲惨さや、集団の規律に強制的に縛られ自由を奪われることの苦しさや死の恐れを深く考えさせ、そして二度と戦争をしてはならないことを強く強く教えるために。

 三重県でも太平洋戦争で約5万人の県民の命が失われました。大学のある津市でも終戦直前の昭和20年7月の空襲では市街地の大半が焼失し、焼失率は全国一だといわれるほど凄まじいもので、1200人以上の市民が命を失いました。三重大学医学部の前身である県立医学専門学校もその時の空襲で10名以上の教職員、学生を失い、付属病院の大半も焼失し、機能停止に陥りました。戦禍の中、教職員と学生が一丸となって授業再開に奔走し、国民学校の空き校舎を借りて10日後に実現します。教室に机はなく、床に座っての講義でしたが、教える側も学ぶ側も真理の追求への目的に向けて一体となったと三重大学50年史に記されています。焼夷弾爆撃の死の恐怖の中でも、彼らの強い勉学の志は衰えることはありませんでした。この時に両親や兄弟を失い、戦後の悲哀、残酷、貧困の中にも、人間の誇りを失わずに新しい家庭を築いた歴史を知らなければなりません。

 伊勢市に生まれた竹内浩三さんも、国家のために否応なく死ぬ運命を課せられ、その不条理かつ非人間的現実との葛藤と苦悩を心打つ詩に残しています。彼は応召後、昭和20年に太平洋戦争の激戦地であったフィリッピンの戦場で命を失います。23歳の時でした。彼の詩はそのときどきの心の動きを素直に詠ったものが多く、われわれの心に直接的に迫ってきます。彼の「骨のうたう」という詩には、戦死することを覚悟していたのでしょうか、遠い他国で戦死するこらえ切れないほどの寂しさがひしひしと伝わってきます。戦争に対する怒りではなく、戦争という愚かな行為で自らの命を失わなければならないことへの悲しみを直接的に表現しています。
 「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ 遠い他国でひょんと死ぬるや だまってだれもいないところで ひょんと死ぬるや ふるさとの風や こいびとの眼や ひょんと消ゆるや」(中略)
「ああ 戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ こらえきれないさびしさや 国のため 大君のため 死んでしまう その心や」
どこかおどけた自嘲的な語り口の中に、極限の状況のもとでこそ人間性の残酷さが明らかにされることを詠っているのではと感じています。
 彼は次のような詩も残しています。「たとえ、巨(おお)きな手が  おれを、戦場をつれていっても  たまがおれを殺しにきても  おれを、詩(うた)をやめはしない  飯盒(はんごう)に、そこ(底)にでも  爪でもって、詩をかきつけよう」詩に賭ける鬼気迫る執念です。

 「沢村の前に大投手なし、沢村の後に速球投手なし」と謳われた大投手沢村栄治も伊勢市出身です。昭和9年に行われたメジャーリーガーとの日米対抗で、弱冠17歳の沢村栄治投手がベーブ・ルースをはじめとする全米チームから9三振を奪う快投をみせ、互角の試合を演じました。試合はルー・ゲーリックのホームランで0対1で負けはしたもののそれは日本野球史上に燦然と輝く初の快挙でした。このことを契機に日米の野球交流は盛んとなり、わが国で最も愛されるスポーツとして発展し、多くの子供達の夢を育んできました。私自身もプロ野球選手を夢見た熱烈な野球少年の一人でした。その後の沢村は中国、パラオへの2度の応召で選手寿命を縮め、3度目の出征でフィリピンへ向かう途中、乗船した輸送船とともに海に消えます。僅か27歳でした。好きでたまらなかった野球での自らの夢を実現することができないまま、戦場に散りました。彼の無念さを伝える文章は残っていませんが、戦場から帰還するたびにボロボロの肩になりながらも直ぐに野球に復帰した行動をみるとき心が揺さぶられます。プロ野球界はその年の最優秀投手に沢村賞を授与して、彼の栄誉をいつまでも称えているのはご存じの通りです。

 20世紀の大量生産、大量消費時代はその裏で戦争という暴力によって支えられていました。21世紀はバランスの取れた持続可能型環境社会にしなければなりません。「戦争の傷痕」を考えさせられる本を読んでみましょう。

(以前に中日新聞の「みえ随想」に書いたものを書き換えました)