- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

生きる

 骨や筋肉のがんは子供や若い人に多く、不幸な転帰をとることも少なくありません。これは長く生きたくても生きることができなかった女性の物語です。

 三橋節子画伯のことをご存じですか。35歳で肩周囲に発生したがんが肺に転移し亡くなりました。整形外科医である私は、これまで同じような腫瘍に犯された多くの患者さんの治療に取り組んできました。そのようながんの5年生存率が約60%ですので、悪い転帰をたどる人も少なくありません。
 三橋さんは画家の生命である右の上肢を腫瘍の治療のために失います。34歳の時です。それからの彼女の考え方や行動には驚嘆します。右手はなくても左手があるではないかと、左手を鍛錬し多くの作品を取り憑かれたように作り出します。その出来映えは右腕の時の作品よりも優れていたと評価されています。精神的苦難を踏み越えて絵に深みが増したのでしょうか。『近江むかし話』の中から、琵琶湖にまつわる伝説を主題にした、一連の絵画シリーズを生みだしますが、いずれの作品にも幼い子供が画かれています。ご自分の二人の子供への思いからでしょうか。
 2年足らずで肺に転移した腫瘍のため帰らぬ人となります。死の数ヶ月前、琵琶湖の北、余呉湖に最後の家族旅行に出かけた思い出を作品にした「余呉の天女」が絶筆となりました。湖の天空に漂う天女がなずな(撫でたいほどかわいい花で、どんな荒れ地にでも咲く花)を摘む少女に手を差しのべている絵です。後に残される子供の安寧を祈る母親の切ないまでの愛情とそれでも耐え難い心残りの哀しさがひしひしと胸に迫る作品です。彼女のお嬢さんの名前は「なずな」ちゃんです。二人の幼子に残した左手で書かれた手紙の字も見事です。
 物事を成し遂げようとの強烈な思い、後生の人々へ伝えなければとの強靱な思考をわれわれ自身の中に呼び覚まさなければとの思いに駆られます。

 もう一人は私自身の経験した話です。中学に入学して胸一杯に希望をふくらませている時に、突然骨盤の痛みに襲われ、われわれの病院を受診してきました。検査の結果、骨の悪性腫瘍とわかり、化学療法、手術、放射線療法と彼女にとって苦しい苦しい治療が1年間続きました。化学療法中やその後しばらくは吐き気や嘔吐や全身倦怠感で動くことも食事を摂ることもできませんでしたが、それに耐えてくれました。治療は成功し中学生活に戻ることができました。腫瘍を摘出する手術のせいで足が不自由となりましたが、高校、専門学校を無事終了し社会に巣立っていきました。定期健診で数ヶ月毎に私のところに来てくれ、明るく振る舞ってくれました。後になって、不自由な足や骨盤の変形のためどうしても積極的になれず控えめに生きてきたと話してくれました。結婚や妊娠も考えないようにしてきたとのことでしたが、彼女が23歳になったとき、彼女を愛してくれる素敵な男性と巡り逢いました。それからは結婚して子供が欲しいと真剣に望むようになりました。悩み抜いた末に泣きながら私の所に結婚の相談にきました。私はこれまで受けた化学療法は妊娠や出産に影響なく、多くの女性が結婚し子供に囲まれた幸せな家庭を築いていること時間を掛けて話しをしました。また、骨盤の変形も帝王切開で出産が可能であることを産科の先生に話してもらいました。歓喜の中、彼女は結婚を決意しました。結婚を知らせに来てくれた時の彼女は輝きに満ちあふれた顔をしていました。しかし、その直後に肺の転移がみつかり、結婚は延期となり再び入院治療がはじまりました。そんな時に「私にはやりたいことがあるので治らない時は早く教えてね」と彼女は言いました。当時の私には非常に厳しい状況で治癒は難しいことを正確に伝えることはできませんでした。病状の進行したある日「やりたいことって何?」と聞くと「それは秘密、それには時間が必要なの」と彼女は答えました。元気のよい子供と短くても楽しく充実した日々を過ごしたかったのです。それを今まで必死になって自分を支えてくれた母親にみせたかったことを最期の手紙に書き残してくれました。現実の過酷さとこの世の不条理を思い知らされました。

 ここ10年、わが国の年間の自殺者が3万人を越えています。その中で若者が増えているとも報じられています。悲しみやつらさは誰もが経験することですが、それは長い人生の中で一瞬です。それを乗り越えた時にすばらしい喜びや楽しみが待っていることを思いだしてください。