- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

忘れられない贈り物―礼儀

 先日、妻と二人でゴルフを楽しんだ。最終組のセルフプレーで、二人だけの気楽なラウンドである。午後3時過ぎ、後半のショートホールのティーグランドに上がるとアナグマがわれわれを迎えてくれた。痩せていて最初はよく解らなかった。キツネにしては体毛が黒っぽ過ぎるし、タヌキにしては顔が長すぎる。アナグマにしては細すぎるが、よく見ると殿部に巨大な腫瘍があり、一部潰瘍化している。痛みがあるのか足を引きずり、しきりに腫瘍部分を舐めている。軟部腫瘍のために痩せてきているアナグマとわかった。整形外科医である私は習慣的にその腫瘍の病名を考えた。巨大になって自潰しやすくなる軟部腫瘍といえばまずは悪性線維性組織球腫が考えられるが、アナグマにその腫瘍があるかどうかは知らない。2~3メートルまで近づいてもこちらをみているが、それ以上となると逃げて同じような間隔を保っている。何か食べ物をと思ったが何も持ちあわせはない。ジュースがあったので紙コップになみなみ注いでアナグマの前に置いて手招きをしても動こうとしない。後続のプレーヤーが来る心配がないので10分ほどにらめっこをしていたがアナグマは動こうとしない。あきらめてティーショットを打った、谷越えの短いショートであるため、私と家内のボールはグリーン上である。名残を惜しみつつグリーンに移動し、パティイングしながらティーグランドを覗うがアナグマは動こうとしない。ホールアウトをするのを待っていたかのように、アナグマは嬉しそうに紙コップをくわえてジュースを飲み始めた。私たちがホールを立ち去るのを見送ってくれた。礼節をわきまえた野生のアナグマである。少なくとも私にはそのように見えた。悪性腫瘍に罹患したアナグマの命は残り少ない。これから穴に入って、素早い動きで森の中を駆けめぐっていた頃のことを夢見ながら静かに最後を迎えてほしいと願うばかりである。

 プレー終了後、支配人にその話をすると、従業員は誰もアナグマをみた者はいないというが、プレーヤーで見たものは多いという。アナグマの出てくるこのショートホールは、距離は短いが、谷越えで大きな松がガードし、グリーンが大きく谷側に傾斜しているためストレスの多いホールである。打球が谷に落ちたり、グリーンを大きくオーバーして苦笑いの時にも、アナグマのユーモラスな仕草によってプレーヤー達の心を和ませてくれたのであろう。

 アナグマが主人公の子供の絵本がある。スーザン・バーレイというイギリスの絵本作家の処女作。日本語訳題が「わすれられないおくりもの」で、原題は、「Badger's Parting Gift」(アナグマの別れ・臨終の贈り物)である。主人公のアナグマは森の中の長老であり、杖をつきながら仲間の世話をしている。そんな彼が暖炉のそばで椅子に揺られながら手紙を書いているうちに眠り、夢を見る。夢の中の自分は杖をつくことなく、どこまでも続く長いトンネルを自由になった体で力強く、そして軽やかに走り抜けるのである。翌朝、「長いトンネルの むこうに行くよ さようなら アナグマより」との手紙を残し、死んでいる姿が森の友達によって見つけられるのである。次の年の春になって、森のみんなは外に出て、誰もが、いろいろな形でアナグマから何かを教わっていた思い出を語り合う。アナグマはみんなに、宝物となるような知恵や工夫を残してくれた。時間の経過と共に、みんなの哀しみも消え、アナグマに対する楽しい思い出だけに変わっていった。贈物は必ずしも形ある「物」ではなく、心の中や体にしみついたものだった。ゴルフ場のアナグマの贈り物もまさに形のない心にひびくプレゼントである。

 「礼儀正しさ」とは誠意から生まれる丁重さと優しさのにじむ親切心である。他人を尊重し、不愉快な思いをさせるような行いを決してしない。正しい礼儀作法は肩のこらないもので目立つこともなく自然で気取ったところはない。それが人当たりの善さにつながり、これはその人の一つの大きな才能である。