- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

聖書に学ぶ

  学会出張中のホテルでの夜は何となく物悲しいので、たいていは友人や教室の若い先生との情報交換となる。食事と少々のアルコールが加わるため、よい気分で眠りにつく。しかし、年とともに皆さんに煙たがられるのか、お声がかからなくなり早々に部屋へ直行ということが多くなる。昼間に新しい学術情報を一杯詰め込むため、部屋では学問書を読んだり依頼原稿を書く気にはなれず、退屈な時が多いが時には想像外の楽しみにめぐり合う。その一つがホテルに備え付けの世界のベストセラー、聖書を開くことである。最初は嫌々開くのであるが、読んでいるとキリスト教徒でない私でも意外におもしろく考えさせられる。

  最初の夜「あなたは、今どこにいるのか」創世記のアダムとエヴァの話の中に出てくる言葉が目に入ってきた。通信、交通手段の発達に相俟って、人の行き来は激しく早く、情報は氾濫し、我々を取りまく環境は著しく複雑となってきている。あまりにも多い誘惑に出会い、それに負けるのに何の苦痛も感じなくなり、自分の日々を正直に見据えた自覚が失われることになる。日々の生活はもとより、業務や学習の中でたえず「どこにいるのか」と呼びかけ、自分が今どの地点をどの方向に進んでいるのかを答えつづけたい。そうすれば同じところに停滞していたり、時には後ずさりしていることがわかるかもしれない。かく言う私は、睡魔という刹那の快楽に身を委ねてしまった。自らの願望と行動の乖離を確実に来している。年齢のなせるわざと自らを納得させる。

  二日目の夜、「夕となり、朝となった」(旧約聖書、創世記)という言葉に惹かれた。一日は日没に始まる。暗闇の不安や恐怖に耐えよ、そうすれば光輝く希望に満ちた未来があるとの言葉を考えたい。ある時、中学3年生の女の子が私にそっとささやいた。病気になる前の自分は好きでなかったが、今の自分はとっても好きなので大切に生きたいと。苦しい治療を乗り越えてきた自信で、未来を自ら築き上げる積極性に満ちあふれた顔で。あの泣き虫だった子がこんなに成長してくれたことに感動し、目頭が熱くなった。羨ましくもあった。その夜は、心和む思い出の中、安らかな眠りとすばらしい朝を迎えた。素敵な朝は長くは続かなかった。携帯電話がなり、私の心臓が高鳴る。案の定、大学よりの事故の知らせだ。

  三日目の夜は、「私は、季節季節に雨を与えるであろう」(レビ記)という言葉を考えた。世界でもとりわけ臨床医学の実践に優れているMayo Clinicを訪れた時に、ここでのシステムはそこで働いている人々をいかに効果的に生かすかという基本思想に貫かれていると感じた。教職員がそれぞれの持ち場で生き生きと自信にあふれて働いていた。そこには、季節季節の雨の恵を受けて素晴らしい果実や穂を実らせた植物と同じように、人々も活かされているようだった。そのためには、必ずしもその場での経済効率は優先していない。三重大学も経営や業務の効率化を考えなければならないが、教職員や学生の意欲を掻き立てるような仕組みを作らなければならない。三重大学の教職員は季節の雨がなくても実によく働く。それが自らを窮地に陥れていることを知りながら、苦しむ人に出会うと彼らを背負って敢然と砂漠にさまよい入るのである。ああ悲しいかな。神よ献身的な教職員に恵みの休暇を。このことは多くの日本人にも当てはまるでしょう。

  四日目の夜は「安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない」が気にかかりました。これは、炊事などに火を使ってはならないということで、女性を家事労働から休ませることを願っての教えでしょうか。女性の教員を増やさなければなりません。「女性が働きやすい環境を」と声高に叫ばれ、託児所の充実が求められています。

  しかし、もっと大事なことは世の男性が積極的に育児や家事に関与することではないでしょうか。先日、シカゴの若い整形外科医と食事をしました。彼の奥さんも医師です。彼に君も家事や育児をシェアしているかと聞いたところ、彼は即座に「いや、妻が家事と育児をシェアしてくれている」とウイットに富んだ返事をしてくれました。今からでも遅くはありません。女性の教職員に安息日を。

  4日間も外泊すると自宅の枕が恋しくなる。翌日の夜に疲れた身体で帰宅し、久しぶりの妻のそばでぐっすりと眠ることができた。神が光を朝となずけた爽やかで素晴らしい久方ぶりの休日が始まろうとしている。それとは対照的にひとときの安息を終えこれからの苦痛に耐えようとしている妻の迷惑そうな顔を横目で見ながら、私は知らぬ振りを決め込む。

  (以前に同窓会関係の雑誌に掲載したものを一部修正したものです。)