- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

最後の学長通信

学長の任期もあと2週間足らずとなりました。今年になってレイムダックになるのではと心配していましたが、これまで以上に多忙となりました。学校教育法と国立大学法人法の一部改正のためこの3月末までに大学の学則や規定を変更しなければならなくなりました。そして、そのことを学内の教職員に周知徹底することが求められたからです。加えて、第3期の中期目標計画策定の準備もしなければなりません。これらの業務以外に退任のご苦労さん会が連日連夜続きます。ゆっくりする暇無しですので、4月からのゆとりを楽しみにしています。

学長通信の6年間ご愛読?ありがとうございました。今回を最後とします。学長になった2009年4月が最初の通信です。それから毎月1回欠かさずに6年間にわたって続けました。大学の教職員へ学長としての私の思いを伝えたいとの動機からスタートしました。任期を終えるにあったって改めて読み返してみますと、この間それなりに自分自身も成長していることが実感できたような気がします。妻から言わせるとそれも自己満足かもしれませんが。多くの大人は、成長は子供に限定したものだと考える傾向があります。そして自分たちにとって成長と言う言葉は死語である思っています。しかし、経験や知識を積み重ねることによりわれわれの知性は確実に高まります。高齢化が急速に進む中、歳を重ねた皆さんが「人は何歳になっても成長するんだ」とのことを信じて、前向きに生きなければこの超高齢社会が豊かにならないでしょう。

最後ですので気楽に趣味のゴルフの話で締めます。20年前はシングルプレーヤーを目指したこともありましたが、現在は緑の中、歩きながらプレーを楽しむことを優先しています。そのためか一向に上達しませんが、18ホールを歩き続けるとよい運動になります。正確に測定したことはないが2万歩近く歩くことになっていて、私の健康にとって必要不可欠な作業です。

年間30ラウンドが平年ですが、2014年度は40ラウンドを超えそうです。皆さんから忙しくてなかなかプレーできないでしょうとの質問をよく受けますがそんなことはないと考えています。土、日に祝日を加えるとおおよそ120日は休日です。40ラウンドはその3分の1ですので、そんなに難しい数字とは思えません。休日に行事が組まれていることは多いですが、それでも月に平均4-5回でしょうか。それに休日出勤は一日中とは限りません。午前中で終われば、午後スルーで、午後の用事であれば早朝スルーといくらでもプレーをする機会はあります。気持ち次第です。外国出張から日曜の朝に帰国して、昼からプレ-の時もあります。「先生は元気ですね」と言われますが、本人はそれほどハードとは感じていません。

それが行政の長となると見る目も違ってくるでしょう。総理大臣、知事、市長になるとこの国ではゴルフは目の敵にされているのではと思えてきます。安倍総理も相当にゴルフ愛好家のようですが、思うようにプレーができていないのでは?哀しいかなです。日本の官僚機構は世界に冠たるものであるため、余程の大事でない限りは事の処理は可能です。危機管理の観点からよりは道義的問題として捉えられることが多いのでは思えます。一方、オバマ大統領のプレーぶりには目を見張るものがあります。年間平均30ラウンドをプレーするとのこと。大統領再選後の2013年には46ラウンドプレーしたとの記録があります。激務の中でのことであり、大統領の体力、気力、実行力に心より敬意を表します。それを非難がましく言わないアメリカ国民にもエールを送りたい。

長年ゴルフをしているので最高のスコアは74、2オーバーです。この時は信じられない距離のパットが決まったり、チップインバーディーとなったり、OBになると思ったあたりが木に跳ね返ってフェアウエー上に戻ったりと幸運続きでした。こんなことがあってよいのかと不安になるほどでした。それも20年ほど前の話で、最近は年々スコアが悪くなっています。ドライバーの距離が落ち、そんなはずはないと力んで方向が定まらなくなり、さらに力が入る悪循環です。目が悪くなっているのかパットの距離感も方向性も良くない。知人とプレーをすると「先生はお上手ですね」とお世辞を言ってくれますが、口の悪い妻は「それだけプレーをしていたら、そのぐらいのスコアは当たり前でしょう」と皮肉を込めて言います。

ゴルフを始めた頃はバブル絶頂期で3時間以上かけてコースに向かうこともしばしばでした。夜が明ける前に出て、夜が暮れて帰宅が当たり前の時代でした。その上取れない予約に高いプレー代金で2-3ヶ月に1回と苦労してプレ-をするのですから、真剣にならざるを得ません。そのためにドライビングレインジで練習もしました。それが今では、自宅から30分以内に10コース以上、プレー代金も津近辺では比較的安く気楽に行けますので、その分真剣みに欠けます。しかし、高齢者にとってゴルフは楽しみながらの運動です。現職の今はまだお誘いがかかりますが、その内に減ってくるのは目に見えています。そのために数年前に妻にもゴルフを教えました。これが予想外の苦労でした。妻にとって私からあれこれ言われるのが腹立たしいのでしょうか。最初の内は喧嘩になることもありましたが、現在ではやっと夫婦で楽しむことができるようになりました。これは私だけの思いかもしれませんが。

病院長の4年を含めると10年間にわたって重職を何とか無事努めることができたのは心身ともに私の健康管理につとめてくれた妻の内助の功によるものと感謝しています。若い頃は妻に対する感謝の言葉を発することに躊躇したものですが。

学長通信をまとめて一冊の本にしました。本のタイトルには迷いました。ある人は前回の本が「何とかなる」でしたので今度は「何ともならない」ではと茶化す同僚もいました。この間実に多くの人の知己をえて自らも成長することを実感しましたので本のタイトルを「60歳からの成長」としました。3月10日発売です。

三重大学の益々の発展と教職員の活躍を心より祈っています。そして、学生たちの元気な行動や声が飛び交うキャンパスであること願っています。私の座右の銘である「一隅を照らす」を皆さんにお送りして稿を終えます。

「三翠の 彼岸桜に吹く風は 世界になびく エコと防災」

タイ・チェンマイからミャンマー・マンダレーへの旅

昨年11月にタイ・チェンマイを3大学ジョイントセミナー出席のため訪問。このセミナーは三重大学とチェンマイ大学と中国江蘇大学の3つの大学が主催で学生の発表を中心とするユニークな国際会議です。各大学が持ち回りで担当校となり今回で21回を迎え、参加大学や出席者も増え21大学から200人以上が集まりました。私のチェンマイ訪問はこれで5度目、楽しい記憶の残る町です。今回はわずか1日足らずの滞在でしたが、チェンマイ日本総領事と親しく話をする機会を得ました。この後ミャンマーのヤンゴン、マンダレーを訪問することを伝えると、チェンマイ・マンダレーの間の山越え陸路の話をしてくれました。1,800以上のカーブがある悪路のため、アドベンチャーではあるが印象深い道であることを教えてくれました。太平洋戦争中にビルマ(ミャンマー)戦線から撤退のため国境を越えてチェンマイに、そこから鉄道でバンコクへ、そして本国へ帰還。マンダレーからの山越えは空腹と疲労と敗北感での行軍であるため多くの戦士が道ばたに倒れ、命を落とした白骨街道となりました。今でもいくつかの墓標があるようです。小説「ビルマの竪琴」の中にもその悲惨さが表現されています。

民主化?されてわずか2~3年のミャンマーです。この国はかつて東南アジアで最も豊かで有数の大国でした。チーク材をはじめ石油などの天然資源が豊富で、人的資源も優れ、識字率は高く、独立後は東南アジアでも早く成長軌道に乗るだろうと考えられていた国でした。それがその後の内乱や鎖国的経済体制などにより最貧国と認定される一つになりました。成長するのには時間がかかるが、没落は一瞬である典型例でしょうか。

主要農産物は米で、農地の60%を水田が占め、三毛作が可能です。また、宝石の産出量も多く、世界のルビーの9割を産出し、サファイアも品質の高さで有名です。うらやましい限りです。しかし、私がとても買えそうにない高価な宝石は美しい輝きを放って「素敵だな~」と思いますが、私が買える値段のものは「こんなものか~」と大した感動を呼びません。

高い可能性を秘めてはいますが、まだまだこれからの国です。ヤンゴン空港からの都心への道は整備不十分と交通渋滞のため目的地までの時間が計算できませんでした。ほとんどが日本の中古車で車内外の表示は製造当時のままです。日本の企業名である何々建設や○○食品の車が走っています。これはロシア・ハバロフスクでもザンビアでも見られ、日本車が世界を席巻していることがよく分かります。新車だけでなく中古車もそうです。

ヤンゴンからミャンマー第2の都市であるマンダレーへ。30人乗りの小さなプロペラ機で向かうが、案内のアナウンスも無いし、表示もないのでいつ搭乗してよいのかよく分からない。待合室でじっと様子をうかがわなければ不安になる。ミャンマー通の笠井裕一医師に聞くと、人数がそろい次第出発で、座席指定が無いこともあるとのことでした。インドネシア・カリマンタン島の飛行機もそうでしたが。マンダレー空港でわれわれを含めて15人ほどが降機したのですが、いくら待っても誰の荷物もベルトコンベアーから出てこない。待つこと30分全く別の所で荷物を発見、ホッと一安心でした。

しかし、それから波乱が続きました。マンダレー一のリゾートホテルに到着。確かに欧米並みの外観でフロントも立派なたたずまい。一流ホテルらしくチェックインはホテル側で行うからロビーで冷たい飲み物でもと言われ、ここでも待つこと30分。やっと鍵を渡されて部屋の前まで案内されました。ドアには鍵穴はなく、びっくり仰天。ごく最近カードキーに変更したようでした。ホテルの人が大慌てでカードキーを取りにフロントまで走るがなかなか帰ってこない。ここでも30分。別の鍵を持って帰ってきて、この部屋は使えないので別の部屋へと言われ、そろそろ皆さんの我慢も切れかかるが、そこは大人、何とか持ちこたえ、到着から1時間以上経過して入室。外観の体裁は整えたが、ソフトは無茶苦茶。

最後のおまけは強烈でした。マンダレーからタイ・バンコク経由で早朝に羽田へ。当日と翌日は東京と信州松本での会議に出席のため羽田着としていました。マンダレーの空港でチェックイン時に係員がモタモタしていましたので「大丈夫かな~」と一瞬不安がよぎりましたが、案の定、不安が的中。早朝の羽田でいつまで経っても荷物が出てきません。係員も航空会社の下請けとあって至って事務的で実につれない対応。私はそれからが大変。ユニクロで下着一式を整え、会議のための靴、さらにはブレザーの購入と走り回りの半日でした。大散財でしたが、特に持ち出し費用は返還されませんでした。結局、荷物は1日遅れで羽田へ、そして自宅へ。私よりは早く自宅に到着していましたが。

多くの困難を経験しましたが、ミャンマーは楽しい国です。三重大学の支援がこれからの発展に大いに貢献することを願っています。

笠井裕一医師の仮説を紹介してこの稿を終えます。ミャンマー人は男性も女性も歩き方が美しい。上下動がなく、ゆっくりと歩くとのこと。その理由はロンジー(巻きスカート)の下に下着を着けていないからだと唱えます。確かに昔の着物姿の日本女性は美しい歩き方だったような気がしますが、ミャンマーの話の真偽は?

2015年の年頭

本年は羊年です。羊は古くから家畜化された動物、おそらく犬に次いでではないかと考えられています。羊は食料として、特にその脂肪は重要な栄養源でした。羊の毛はフェルトとして敷物や衣料として大いに利用されていたのはご存じの通りです。
羊はわれわれの生活、特に中国ではきわめて重要な位置を占めていたことが現代の漢字に残されています。羊に食で「養」、羊に大で「美」、羊に我と書いて「義」です。いずれも現代日本で重要なメッセージです。

本年4月に学校教育法と国立大学法人法の一部が改正されます。その改正の概要は大学運営における組織の改革です。そのために、三重大学の規定を改正し、それを教職員の皆さんによく知ってもらわなければなりません。大学ではこのことが一番難しいことかもしれません。そして、2016年より始まる第3期の中期目標・計画を策定し、運営費交付金や競争的資金の獲得に向けて体制を整えなければなりません。私たちが変わることが新しい夢を開くでしょう。

しかし、人や組織が変わることが如何に難しいかは歴史が示すところです。変わることができない理由を大人の知性に求めたのがハーバード大学のロバート・キーガン教授らです。知性には環境順応型知性、自己主導型知性、自己変容型知性の三段階があり、その段階向上により思考様式を変容させることが、人が変わるためには必要であるとしています。
第一段階の環境順応型知性は集団思考となりやすく、その結果として善良なドイツ人がナチスの命ずるままに残虐な行為に陥ったり、温厚な日本人が軍部に引きずられて侵略行為を繰り返したりしました。次の段階が自己主導型知性で、自分が求めている情報には実に優秀で積極的に取り入れるのですが、自らが求めていない情報には冷淡です。自分の専門領域では素晴らしい仕事をするのですが、社会の中でどのような位置づけにあるのかを理解しようとせず、独善的になってしまいます。多くの大学教員はこのレベルから抜け出そうとしないのでは? 最も高いレベルは自己変容型知性です。自己主導に加えて計画や思考様式の限界を教えてくれる情報を得ようとする知性です。常に現在の思考枠組みの限界を理解しようとする姿勢を維持します。そのため欠陥を指摘された時に自分が否定されたとは感じません。

大学でも既存の仕組みを疑ってみましょう。例えば現在の学部編成は永続的なものか、それを変えることできないのか。誰でも変えることには大きな不安を伴うものですが、そこを自己変容型知性で乗り越えると計り知れないメリットが得られるかもしれません。これらの根底になっているのは「人間は何歳になっても成長できる」との知性ではないでしょうか。

教育、研究、社会貢献については個々の教職員自らが今年の目標に向かって邁進してくれることを信じています。大学全体としては教育では専門教育に対する一般教養教育を一層充実しなければなりません。既に三重大卒業の優秀な人材が国内外で活躍していますが、それに続く人財を輩出しなければなりません。教育の国際化も重要です。英語での授業を増やすことが、受け入れ留学生、派遣留学生の増加につながるでしょう。
研究については自らの研究の位置づけを再確認しましょう。夢と現実の乖離を認識した上で、地域との素晴らしい共同研究での成果を世界に向けて発信して下さい。研究者としての倫理については常に自分の命題として考えなければなりません。研究不正は研究者はもとより組織も命取りになることを強く認識し、それを許さない土壌を三重大学に作りましょう。
地域との連携では三重大学の発進力は現在非常に高いものがあります。「第3期中期目標期間における国立大学法人運営費交付金の在り方に関する検討会(第3回)」で鈴木英敬三重県知事が三重大学と県を中心とする行政、県内の企業との連携の成果を発言してくれました。そのことにより文部科学省や財界が大いに注目してくれています。地域圏の大学の一つのモデルになってきています。 

羊の歩みは馬のように速くはありませんが着実です。十二支で馬の後に羊を配したのは走りすぎた後は少し考えながら進もうとの教えかもしれません。皆さんの2015年の活躍を期待しています。

2014年三重大学十大ニュース

2014年が暮れようとしています。午年だったからでしょうか、特に早く駆け抜けた気がします。三重大学での十大ニュースを広報室とともに選びました。教職員、学生の皆さんにもそれぞれの心に深く刻まれた出来事があったと思いますので比べて下さい。
重要度ではなく出来事順に10件を挙げました。

1.    地域イノベーション研究開発拠点が完成(1月)
地域イノベーション学研究科は6年前に設立しましたが、研究開発の拠点となる施設がありませんでした。5階建てで実験室や交流ホールなど、地域の研究機関や企業も利用できるスペースが充実しています。これまで以上に地域の産官学民の連携が強化されます。

2.    三重大学教養教育機構が発足(4月)
現在の大学教育において教養教育の重要性が増しています。そのための機構です。全学から異動した15名の専任教員でスタートします。今後の活動が期待されます。

3.    レーモンドホールリニューアルオープン(4月)
国の登録有形文化財であるレーモンドホールが耐震改修され、装いを一掃しました。リニューアル記念として特別写真展「美しき三重大学―四季の彩り」、現在は三重大演習林もロケ地となった「映画WOOD JOB!と三重大学演習林」を開催しています。(12月25日まで)

4.    三重県・三重大学みえ防災・減災センターの立ち上げ(4月)
防災人財の育成、災害に関する情報の収集、防災・減災におけるシンクタンク、産官学民の「防災ハブ」の機能を有する大学と県が一体となった全国初の防災組織です。

5.    海外との連携協定100大学に(11月)
海外の大学や研究機構との連携が100件となりました。100校目は南台科技大学工学院(台湾)との連携です。大学間だけではなく企業も加わった新しい連携の形態です。

6.    学長選考会議で次期学長を選任(11)
学長選考会議は次期学長候補者として駒田美弘副学長(医学系研究科教授)を選出しました。

7.    ESD in 三重2014 アジア・太平洋持続可能な開発のための教育(ESD)ユース世界会議開催(11月)
世界19カ国、200人を超える若者が環境保全、国際理解、生物多様性などに関するESDプログラムを体験しました。

8.    藤田保健衛生大学と災害時病院間の相互協力・支援協定締結(12月)
災害拠点病院の機能を果たすために藤田保健衛生大学と災害時の相互協力、支援に関する協定を締結しました。

9.    研究成果を社会に発表(通年)
医学系研究科、生物資源学研究科、地域イノベーション学研究科などより9件の新しい発見等をマスメディアに公表しました。いずれも世界に発信できる研究成果で、三重大学の研究力の高さを示しました。これ以外にも多くの研究成果が各学部、研究センターより公表されました。

10.  大学関連商品大好評(通年)
梅酒、チェンミコーヒーに続きジビエカレーを三重県、企業と提携して新たに三重大ブランド商品として発売しました。新宿高島屋での「大学は美味しい!!」フェア(5月28日~6月3日)に出展し好評を博しました。また、地域イノベーション学研究科博士後期課程学生で伊勢角屋麦酒の鈴木さんが研究した酵母を利用したクラフトビール(地ビール)「ヒメホワイト」ビールは「インターナショナル・ビアカップ」で金賞も受賞しました。

教職員、学生の皆さんが2015年の新年を清々しい気持ちで迎えられることを願っています。

地図にない文化の交流道

私の生まれ故郷は四国の真ん中に位置し、四国のチベットと呼ばれている徳島県の最西部の寒村、三縄村。現在は平成の大合併で市制を敷く池田市になっていますが、全国的にみても限界集落の最も多い地方です。気候温暖と考えられている四国の中では厳しい環境で、特に冬場は山陰地方の天気予報がよく当てはまります。徳島市から吉野川に沿って西に向かうと、池田に近づくにしたがって天気が悪くなり、霧が立ちこめ、視界も悪くなります。

伊勢と池田は直線距離で約250km離れています。高速道路網が整備されてきているので現在は6-7時間で到達可能ですが、鉄道などの交通機関が発達する以前は船で海を渡り、徒歩での移動ですから約2週間以上を要したはずです。きわめて遠方で、特に接点が存在したとは思えないにも関わらず、私の故郷の稲の収穫を祝う秋祭りには伊勢音頭の一部が唄われます。この文化の交流道とは何だったのだろう。

直ぐに浮かぶのは農業の道です。伊勢神宮の年中の神事のほとんどが農業に関することです。神宮が作る農業歴である「伊勢歴」には苗床作り、田植え、稲刈りなど季節ごとにやるべき農作業が詳しく書かれています。それに加えて当時の最先端の農業技術や農耕製品がお伊勢参りとともに全国各地に伝えられ、全国の農民に支持されていたと考えられます。この伊勢暦は江戸時代中後期には200万部刷られたとのこと、まさにベストセラーでした。当時の伊勢は日本最先端の技術や文化を有する町で、世界的にもフィレンツェやバチカンなどに匹敵する町だったようです。政治の江戸、経済の大阪、歴史の京都、そして文化の伊勢です。その文化が伊勢から全国津々浦々に伝えられたとしても不思議ではなかったのでしょう。

故郷の三縄、池田の地名はいずれも川に由来するとされています。縄のように入り乱れている(三縄)、襲ってくるような激流(池田)を表す地名です。その通り四国三郎吉野川の中流の難所です。この地で吉野川はほぼ直角に北から東に流れを変えます。日本最大の断層である中央構造線上にある吉野川がなぜ構造線から逸脱するのか不思議に思っていましたが、三重大の地理学者から「河川の争奪」によるものと説明されました。支流が本流を奪い取る現象で、河川争奪が起こると奪う側では急勾配の谷が形成されるのに対し、奪われる側では比較的平坦な地形となることが多いといわれているとのことでした。確かに吉野川も奪った流れは大歩危小歩危の急勾配の渓谷が形成され、奪われた馬路川は平坦な小さな流れとなって愛媛県との境界の峠で消失しています。争奪が発生する前に、奪われる側は幅の広い谷を形成していたが、最終的には上流域を奪われ、河川規模が小さく萎んでしまっています。

一方、伊勢の由来も川に因んだものと考えられている。その語源は五十鈴川(いすずがわ)にあり、鈴は瀬々を意味し、暴れ川のイメージでしょうか。こちらは河口に近いため磯も加わって伊勢とのこと。いずれも川が結ぶ文化の交流です。

伊勢も池田も中央構造線上で、この断層上には水銀の鉱脈が豊富であり、古くからそれを追い求める山の民がいたと言われています。水銀に由来する名前である「丹生」の地名が多く見られます。三重県の丹生大師はよく知られていますし、ここで伊勢の神宮と高野山が結ばれていたことが想像されます。

伊勢から高野山、さらには吉野山から吉野川、紀ノ川、そして四国の吉野川へ山の民による密な交流があったのでは?いつの時代も人の交流は驚くほど広い。徳島と三重も遠くはないし、日本全体が結ばれています。

人の結びつきがあっての人類です。この結びつきを大きくしていったことにわれわれの進化があることを忘れてはなりません。

南方の島で思うこと

本年5月、南太平洋大学と国立フィジー大学との連携のためフィジーを訪れた。4年前までは日本より直行便があったが、現在では韓国か香港かニュージーランドもしくはオーストラリア経由でないと行けなくなっている。そのため日本人観光客はほとんどいないが中国や韓国の人を多く見かける。確かに数年前には夢の島と銘打ったフィジー観光のパンフレットが氾濫していたが、現在では探すのに苦労する。大学間連携の合間の週末をリゾート地のナンディで過ごし、疲れを癒やした。民俗芸能、マリンスポーツなど楽しめる島である。

 南太平洋大学(University of the South Pacific)は、太平洋の12の小規模島嶼国家群が共同で設立した公立大学で、本部及びメインキャンパスはフィジー島に置かれている。この大学の特徴は衛星回線を使用した遠隔地教育の充実である。すべての加盟各国には地域のサテライトキャンパスが置かれ、本校からの通信授業がおこなわれている。これは2010年に日本のODA援助により大学内に建設されたJapan Pacific ICT Centerによって機能が維持されている。ここは南太平洋地域最大の情報通信センターともなっている。コンピュータ設備を整備した実験・実習・研究用の部屋、サーバー室、ネットワーク運用管理室、遠隔教育用設備、テレビ会議室、ICT関連学部・大学院の教員室などが置かれている。このセンターを起点として最先端技術研究、高度な技術教育の実現により南太平洋地域における教育、医療、災害予防と対策、交通運輸、地域振興等の拡大が推進されている。日本の大学でも見られないような素晴らしいセンターである。

フィジーはメラネシアに属しているがそこに住む住民はポリネシア人が多く文化も受け継いでいる。ポリネシア人は大男が多いのが目を引く。少し大げさであるがガリバー旅行記の巨人の国を思わせる。ニュージーランドやオーストラリアのラグビーチームや来日しているポリネシアからのラガーマンの巨大さと強靱さには驚かされるのを多くの人が感じているはずだ。

ラピタ人は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いた民族でポリネシア人の祖先と考えられている。彼らはモンゴロイド系の民族で、元々は台湾にいたのだが、その一部は4,500年前頃に南下を開始し、フィジー諸島に 到達、そしてポリネシアのサモアやトンガに拡がっていったとされている。この地域からラピタ人の土器も出土している。この時に別のグループは黒潮に乗って日本列島にも渡っており、特に三重県や愛知県や和歌山県などに彼らの末裔が多いと言われている。骨格の類似性から、縄文人と現在のポリネシア人を形成した人種は共通するとされている。三重大学では紀伊半島に多いといわれている神経変性疾患を長年にわたって研究を続け、類似した疾患がミクロネシア系であるグアム島住民には見られるが、ポリネシアの人々に存在するのかは現在調査中である。疾患の類似性から民族の起源を追求する壮大な研究である。その成果が楽しみである。

ポリネシア人は体重に対する筋量と骨量の比率が他のあらゆる人種を大きく上回っている。そのため『地球最強の民』(最も強い身体を持つ人々)などと称されることがある。多くのポリネシア系移民を有するオーストラリアやニュージーランドでは、肉体を酷使するスポーツにおけるポリネシア系の人々の活躍が目覚しい。オーストラリアにおいては、一般的にポリネシア系の児童と白人系の児童とで身長を含む体格が大きく異なるため、少年ラグビーリーグでは、ポリネシア系児童の重量級部門を設置しようとの議論がしばしば起こっているという。

この大柄で筋骨隆々とした体形はどうして作られたのか? 食事ではと考えるが、タロイモが主食では可能性は低い。タロイモに特別な成分が含まれているとは思えない。昔の航海活動と深い関係があるとの説が有力である。当時の航海は、飢えや寒さなど、想像を絶するほど難儀なもので、これを克服し、子孫を多く残すのに、大柄で頑健な体形の者が生き残ったとする自然適応説である。長期間食べなくても巨大な肉体を維持できるように、胴部に脂肪がたまりやすい体質になったと考えられているが、本当のところは分からない。しかし、びっくりする大男、大女が多いのは確かである。

昭和40年代の高度成長期には「大きいことはいいことだ」をキャッチフレーズに突き進み成功を収め、大きなものへの憧れを持ち続けているが、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」や「小さな幸せ、慎ましやかな幸せ」が人生にとって大切であることも忘れてはならない。

 

教職員の皆さんへ

平成24年6月に文部科学省は大学改革実行プランを打ち出して、それを強力に推し進めてきています。現在の日本は、歴史上希に見る急速な少子高齢化、情報通信や交通の発達によるグローバル化、地域コミュニティの衰退など急激な社会の変化の中にあります。その中で、大学は社会の変革を担う人材育成、知的基盤の形成やイノベーションの創出など、「知の拠点」として役割を果たすため、大学は変わらなければなりません。三重大学が教職員それぞれ独自の目的のためだけではなく、誰のため、何のために存在しているのかを考える「意識改革」が求められています。

まずは文部科学省が取りまとめた「大学改革実行プラン」を示します。「大学改革実行プラン」は、2つの大きな柱と、8つの基本的な方向性から構成されています。

1つ目は、「激しく変化する社会における大学の機能の再構築」であり、

   1. 大学教育の質的転換、大学入試改革

   2. グローバル化に対応した人材育成

   3. 地域再生の核となる大学づくり(COC (Center of Community)構想の推進)

   4. 研究力強化(世界的な研究成果とイノベーションの創出)

を内容としています。

そして、2つ目はそのための「大学のガバナンスの充実・強化」であり、

   5. 国立大学改革

   6. 大学改革を促すシステム・基盤整備

   7. 財政基盤の確立とメリハリある資金配分の実施
       【私学助成の改善・充実~私立大学の質の促進・向上を目指して~】

   8. 大学の質保証の徹底推進
       【私立大学の質保証の徹底推進と確立(教学・経営の両面から)】

を内容としています。

「大学改革実行プラン」は、あるべき論を示すのではなく、24年度直ちに実行することを明らかにし、今年と次期教育振興基本計画期間を大学改革実行期間と位置付け、計画的に取り組むことを目指します。大学改革実行期間を3つに区分し、PDCAサイクルを展開します。

平成24年度は、「改革始動期」として、国民的議論・先行的着手、必要な制度・仕組みの検討、平成25、26年度は、「改革集中実行期」として、改革実行のための制度・仕組みの整備、支援措置の実施、平成27年度~29年度は、取組の評価・検証、改革の深化発展を実施し、改革の更なる深化発展を行います。

このプランが示される以前から三重大学は大学改革のため,教育の質向上、研究の集約化、地域との連携を進め成果を上げてきました。それでもスピード感が足りない,社会の方向を向いていない、ガバナンスができていないなど大学全体に対する批判は少なくありません。大学が自律的改革を進めていると国民に写っていないからであろう。

もう一度繰り返します。大学改革とは「教職員の意識改革」にほかなりません。大学の教職員は皆さん大きな夢を抱いています。それは現実感に乏しい世界を見つめる夢でよいのですが、それでも三重大学や地域の人々と夢を共有するのにどうすればよいかを必死に考えなければなりません。地域に根付いてこそ世界に発信できることを忘れないで下さい。

嘘と誤解

世の中には三つの嘘があると言われている。「善意の嘘」、「悪意の嘘」と「統計の嘘」である。「頭の禿げの進みが少し止まっているように思うが」と妻に問うと、「いやどんどん進んでいるわよ」と答えられる。本当のことだが良い気持ちではない。大学の職員や料理屋の女将さんは「そうですね。少し髪が増えているようですね」と嘘をついてくれる。これは善意の嘘である。

18年前三重大学に赴任したとき、無記名の怪文書が送られてきた。身に覚えなき誹謗中傷である。私を陥れようとする悪意の嘘である。最初は猛烈に腹が立ったが、ある人からこれも有名税ですよと諭された。教授就任をすべての人が歓迎してくれているとの私の誤解による立腹である。「よそ者の私を見る目が人それぞれであるなー」と思うと気持ちが落ち着いてきたのを記憶している。

統計の嘘にはよく遭遇する。専門領域の論文を読んでいると、統計手法の間違いによるデータ解析、手法的には正しいがどう考えても真実とは思えない結論などである。

誤解にも嘘と同じようなことが起こる。

三重大学ブランドのカレーは善意の誤解の中で大ヒット商品となっていった感がある。三重大カレーが美味であることが販売促進の最大要因であるが、「内田」で消費者の誤解が売れ行きを伸ばした。勢水丸の内田誠船長と私、内田淳正の混同である。練習船の中で週に1回は必ず出されるカレーを三重大学ブランドとして売り出そうと生物資源学部の先生、勢水丸のスタッフ、生協と食品会社が協力して完成したのが「三重大カレー」だった。販売段階で学長の内田淳正も積極的に協力はしたが、いつの間にか三重大学長一人が目立つようになり、学長推薦のカレーとして実績を伸ばすことに大いに貢献した。三重大学としては内田違いの嬉しい誤解の結果大ヒットに結びついたのだろう。

夏休み中の早朝の電車での出来事である。テニス部の中学生が対抗試合に出かけるのか大きな荷物を抱えて優先座席に座っていた。早朝であるため車内それほど混雑はなく、立っているのは私一人である。健康のため通勤の電車で座らないのが私のルール。下車駅が近づいたのでドアの方へ移動中に座っている中学生と目が合った。数人の彼らが申し訳なさそうに立ち上がって席を空けた。座っていることをとがめられると思ったのだろう。楽しい誤解であり、それなりに礼儀をわきまえている中学生である。 

改築した三重大学レーモンドホールで田口寛名誉教授の写真展が開かれた。四季折々の学内の風景を撮影した素晴らしい写真の数々の展示である。その初日お祝いの蘭の花が2つ届けられていた。一つは先生ときわめて親しい人から、もう一つは先生の外部女性支援者の一人である内田さんという方からのものである。私もその女性はよく知っているため、その蘭が誰からのものかは直ぐに分かった。しかし、大学関係者の多くは内田という名前を見て学長の私からであると誤解した。学長からのお祝いが届けられていると誤解した大学関係者はこの展覧会を特別な目で注目したことを田口先生本人から聞かされた。うれしい誤解であるが、内田女史には気の毒なことをした。

昔のことであるが妻と出かけるために駅に急いだ。残念ながら一瞬の差で電車に乗り遅れた。私の言葉「おまえが、もっと急げば、今の電車に間に合ったのに」妻の答えは「あなたが、そんなに急がなければ次の電車をこんなに長く待たなくてよかったのにね」

妻は子供のことについて何でも知っている。好きな食べ物、どの学科が得意で何が不得意か、誰のことが好きか、一番の親友、密かに恐れている物、希望、そして夢。そして私は妻から糾弾される。「息子のことを一緒の家に住んでいる、年下の人だとしか思ってないんでしょ」と。これは妻の大いなる誤解であるが、息子は父親の背中をじっと見ていると信じたい。

南アフリカのワインと教育の町

ザンビアに続いて南アフリカ共和国のケープタウンを訪問(7月3日~5日)。7月のこの時期は、ロンドンの気候とよく似ている。風が強く雲の流れが速いため、太陽が顔を出すかと思うと曇りになり、雨が降り、時には激しく降り出す。気温もめまぐるしく変化する。20度以上からあっという間に10度以下となる。この変化に対応するにはわれわれの身体は十分には慣らされていない。傘も必携であろう。セーターやウインドブレーカーを羽織りたくなるかと思うと、半袖で十分の時もある。

ケープタウンから東へ車で約1時間。ステレンボッシュの町がある。人口15万人で、ワインと教育の町と称されている。周囲に多くのブドウ畑にワイナリーがあり、南アフリカ最大のワイン生産地であることと、町にあるステレンボッシュ大学故にこのように呼ばれている。うらやましい限りである。津市も政治と教育の町であるが、そのように称されることは希である。この大学は南部アフリカに住むオランダ系白人を中心とするアフリカーナーの中心的教育機関で、大学間連携のための訪問である。

ステレンボッシュ大学の農学部にはワイン学科があり、ブドウ栽培や醸造の研究を通して地場産業にも大いに貢献している。ワイン学科とは実に単純明快、わかりやすい。誰にでも何をしているかが理解できるし、三重大学にとっても絶好の連携先である。 

私の好きなプロゴルファー、アーニー・エルスがこの大学出身とのこと。大きな身体でゆったりした優雅なスイングでボールをとらえる。いつも手本にして、ゆっくりとスイングしたいと願っているが、そううまくはいかないのがゴルフである。彼のワイナリーがステレンボッシュにある。その名もアーニーエルスワインズ。世界各地で出会った素晴らしいワインの虜となり、自ら世界トップクラスのワインを作ることを目標にしているとのこと。彼は「ワイン造りはゴルフのようだ。最後には自然が全てを決定づける」と語っている。 

ステレンボッシュ大学はラグビーも強いとのこと。南アフリカ最強のチームだと大学関係者から聞いた。調べてみると確かに大学とクラブチームは世界最大の人数を有し、世界にラグビー人材を派遣しているようだ。日本で活躍しているプレーヤーもいる。最近ではステレンボッシュルールと呼ばれる新しいルールを提唱し受け入れられている。ラグビーを中心とした大学間連携もおもしろい。三重大学は難しいが、私学では可能ではないでしょうか。 

アフリカ大陸の最南西端の喜望峰を訪れた。ポルトガルのバルトロメウ・ディアスにより大航海時代に発見された。彼が岬を見つけたときに嵐であったため「嵐の岬」と名付けられたが、国王マヌエル1世はこれを「希望の岬」(CAPE OF GOOD HOPE)と改めた。その後、国王の命を受けたヴァスコ・ダ・ガマは、この喜望峰を経由してインドに到達し、さらに中国の広東まで足を伸ばしている。アジアとポルトガルを直接結びつける海上交易路が完成し、海のシルクロードが開けることになった。まさに「希望の岬」である。なぜ日本語訳が「喜望峰」となったか?誤訳といわれている。確かに「喜望」という言葉は広辞苑を調べてみても存在しない。しかし、ポルトガル人たちが喜び勇んでインド洋を望んだことを考えればすばらしい造語と考えたい。 

三重大学にも喜望の道が示されますように。

 

人類のふるさとアフリカ

初めてのアフリカ訪問である。アフリカに出張を命じられた若い医師のお母さんが「メ」と「フ」を聞き間違え大喜びしたが、後でアフリカだったことを知り大いに落胆したという話を聞いたことがある。今回、事務職員に随行を求めたところ誰も行きたがらない。少ない負担で世界を知る機会を、アフリカと聞いただけで回避する。それがわれわれ日本人の多くが自らの祖先の地であるこの大陸に抱く印象であろう。しかし、アフリカは大きな大陸であることを知らなければならない。北アフリカはアラブ系のイスラム教徒が多くを占め、ホワイトアフリカとも呼ばれる経済的にも安定した地域である。サハラ砂漠以南をサブサハラと位置づけ、黒人中心の国家でブラックアフリカと呼ばれている。サブサハラでも南部アフリカはまた少し違っている。今回訪問したザンビア、南アフリカ共和国は灼熱の大地ではなかった。7月は南半球が真冬であること、それに高地でもあり涼しいから寒い国々であった。先入観にとらわれすぎると大きな間違いを起こすことのよい教訓である。

今回訪問した両国は政治的、経済的に比較的安定した国家であるが、それでも先進諸国とは比べものにならないぐらい貧富の差が激しい。貧民街での衛生状況は悪く、感染症や栄養失調の子供たちは多い。慢性化する子供たちの背景にはエイズがあるといわれている。アフリカへの世界からの援助が行き届いていないことにも憤りを感じる。一部の人の搾取によるとの話も聞く。問題解決に向けて最も重要なことは子供たちへの教育の徹底であろう。時間が必要だが20年後に期待しよう。

ザンビアで医療ボランティアを展開している60歳代前半の山元香代子先生(自治医大卒業)に教えられた。3ヶ月日本で診療して資金を獲得し、それをもとにザンビアの僻地医療を展開している。実に志が高く実行力のある女医さんである。それに若々しい。後に続く医師たちが育って欲しいと願っているが。

援助の継続性の難しさも痛感した。ザンビア大学農学部の建物は40年前にカナダの援助で建築されたとのこと。しかし、現在ではカナダの影はどこにも見えない。医学部の建物の一部は30年前にJICAの援助とのこと。日本の影も薄くなっているようだ。それに変わって中国が前面に出てきている。大学のキャンパス内には孔子学院があり、中国の援助によるがんセンターが建設中である。町を歩く中国人も少なくない。国家戦略を強く感じる。一国に影響力を持ち続けるためには継続的援助が必要であるがそれには国家に介入が必要であろう。

山崎豊子作の「沈まぬ太陽」の最後の文章「何一つ遮るもののないサバンナの地平線へ黄金の矢を放つアフリカの大きな夕陽は、荘厳な光に満ちている。それは不毛の日々に在った人間の心を慈しみ、明日を約束する、沈まぬ太陽であった。」今回の訪問で見たザンベジ川やサバンナに沈む巨大な夕陽はまさに人の心に勇気を与えてくれる。

アフリカとアフリカに住む人々に明るい未来が開けることを信じる旅であった。