- 学長通信 -

三重大学長ブログです。

地図にない文化の交流道

私の生まれ故郷は四国の真ん中に位置し、四国のチベットと呼ばれている徳島県の最西部の寒村、三縄村。現在は平成の大合併で市制を敷く池田市になっていますが、全国的にみても限界集落の最も多い地方です。気候温暖と考えられている四国の中では厳しい環境で、特に冬場は山陰地方の天気予報がよく当てはまります。徳島市から吉野川に沿って西に向かうと、池田に近づくにしたがって天気が悪くなり、霧が立ちこめ、視界も悪くなります。

伊勢と池田は直線距離で約250km離れています。高速道路網が整備されてきているので現在は6-7時間で到達可能ですが、鉄道などの交通機関が発達する以前は船で海を渡り、徒歩での移動ですから約2週間以上を要したはずです。きわめて遠方で、特に接点が存在したとは思えないにも関わらず、私の故郷の稲の収穫を祝う秋祭りには伊勢音頭の一部が唄われます。この文化の交流道とは何だったのだろう。

直ぐに浮かぶのは農業の道です。伊勢神宮の年中の神事のほとんどが農業に関することです。神宮が作る農業歴である「伊勢歴」には苗床作り、田植え、稲刈りなど季節ごとにやるべき農作業が詳しく書かれています。それに加えて当時の最先端の農業技術や農耕製品がお伊勢参りとともに全国各地に伝えられ、全国の農民に支持されていたと考えられます。この伊勢暦は江戸時代中後期には200万部刷られたとのこと、まさにベストセラーでした。当時の伊勢は日本最先端の技術や文化を有する町で、世界的にもフィレンツェやバチカンなどに匹敵する町だったようです。政治の江戸、経済の大阪、歴史の京都、そして文化の伊勢です。その文化が伊勢から全国津々浦々に伝えられたとしても不思議ではなかったのでしょう。

故郷の三縄、池田の地名はいずれも川に由来するとされています。縄のように入り乱れている(三縄)、襲ってくるような激流(池田)を表す地名です。その通り四国三郎吉野川の中流の難所です。この地で吉野川はほぼ直角に北から東に流れを変えます。日本最大の断層である中央構造線上にある吉野川がなぜ構造線から逸脱するのか不思議に思っていましたが、三重大の地理学者から「河川の争奪」によるものと説明されました。支流が本流を奪い取る現象で、河川争奪が起こると奪う側では急勾配の谷が形成されるのに対し、奪われる側では比較的平坦な地形となることが多いといわれているとのことでした。確かに吉野川も奪った流れは大歩危小歩危の急勾配の渓谷が形成され、奪われた馬路川は平坦な小さな流れとなって愛媛県との境界の峠で消失しています。争奪が発生する前に、奪われる側は幅の広い谷を形成していたが、最終的には上流域を奪われ、河川規模が小さく萎んでしまっています。

一方、伊勢の由来も川に因んだものと考えられている。その語源は五十鈴川(いすずがわ)にあり、鈴は瀬々を意味し、暴れ川のイメージでしょうか。こちらは河口に近いため磯も加わって伊勢とのこと。いずれも川が結ぶ文化の交流です。

伊勢も池田も中央構造線上で、この断層上には水銀の鉱脈が豊富であり、古くからそれを追い求める山の民がいたと言われています。水銀に由来する名前である「丹生」の地名が多く見られます。三重県の丹生大師はよく知られていますし、ここで伊勢の神宮と高野山が結ばれていたことが想像されます。

伊勢から高野山、さらには吉野山から吉野川、紀ノ川、そして四国の吉野川へ山の民による密な交流があったのでは?いつの時代も人の交流は驚くほど広い。徳島と三重も遠くはないし、日本全体が結ばれています。

人の結びつきがあっての人類です。この結びつきを大きくしていったことにわれわれの進化があることを忘れてはなりません。