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深化する三重大学の忍者研究 ~part2~

2021.10.29

※本記事は山田 雄司教授の研究見解に基づきみえみえ学生広報室員が作成しております

-そもそも、忍者って全国に何人くらいいたのですか?

山田なかなか難しい質問ですね。例えば江戸時代だと、忍者はそれぞれの藩に抱えられていました。あとは、江戸幕府も忍者を抱えていましたね。人数は場所によってさまざまで、数名のところもあれば、50人ほど抱えている場合もあったようです。これを考慮すると......江戸時代ならば全国で1, 000人はいたのではないでしょうか。

-結構な数ですね......。

山田はい、戦国時代も大名が忍者を抱えていて、上杉謙信や武田信玄は何百人と忍者を抱えていたようです。ですから、戦国時代ですと2,000~3,000人はいたのかと。

-戦国時代、規模が大きいですね......。その忍者たちって、全員忍術を使うことが出来たのですか?

山田まず忍術といっても色々あって......私たちが忍術と言われて真っ先にイメージするのは、「水遁(すいとん)の術」や「火遁(かとん)の術」のようなものですけれども。
ですが、そもそも忍術が実際に使われていたときには「水遁の術」なんて名前は存在しなかったんですね。それがのちに、「これは『水遁の術』と名付けよう」と決まっていったんです。これは木火土金水(もっかどごんすい)になぞらえて、五行に位置付けたネーミングになっています。

-名前は後付けだったのですか!?

山田はい。でも、例えば敵が追いかけてきた時に石を水場に投げて「ポシャン」と音を立てさせるじゃないですか。すると敵は「ああ、今水の中に潜ったな」と誤認して、その場に近寄りますよね。その間に自分は反対側に逃げる......こういう「やり方そのもの」は、忍術書に書いてあるんですよ。それが昭和以降、小説なり映像なりの媒体で、色々と加工され、大げさになって......「盛られていった」形になりますね。

-今でいう、「映える(バエる)」感じに......。

山田ええ、そういうことです。

-では、今の「忍者の服装」イメージも、史実とは異なるのですか?

山田昼間はこういった衣装を着ることはないですね。昼に着るとバレてしまいますので......。

-確かに、逆に目立ちますよね!

山田はい、なので旅芸人やお坊さんに扮していたようです。そうすれば各地を渡り歩くことが可能になりますので。あとは普通の人の恰好をして、情報を集めていたこともあったようです。

-では、忍者らしい服は着ていなかったのですか?

山田いえ、夜はそのような仕事着を身に付けて活動していました。色は紺や茶褐色で......黒もあったようですが、逆に「黒は月夜だと目立ちやすい」と文献に載っています。黒のイメージは歌舞伎からですね。だいたい18世紀の初めからです。「忍者が登場したな」とお客さん側に理解してもらうためのユニフォームとして、黒色の衣装が定着していったようですよ。

-なるほど! 確かに、歌舞伎の衣装って基本的に色鮮やかなイメージがあるので、忍者役が黒を身に纏えば逆に目立って良いですよね。しかし、黒だと月夜に照らされるというのは盲点でした......。

-ところで、忍者と言えば伊賀流と甲賀流が有名ですが、この二か所の忍者にはどのような違いがあったのでしょうか?

山田伊賀と甲賀は今でこそ三重県と滋賀県で分かれていますけれども、県同士が接していますよね。だから婚姻関係や人の移動もありました。映画などでは「伊賀」対「甲賀」で対決していることもありますが、実は特に特徴に違いがあるわけではないんです。

-つまり、「伊賀」対「甲賀」は、「対決させたがり」の人たちが作ったフィクションの関係性ということですか......?

山田そうですね。「忍者ハットリくん」でも対決していますが、完全なフィクションです。

-では、全国に他の流派があるというのも、フィクションということに......?

山田ああ、それはフィクションではなく他の流派も存在しますよ。伊賀、甲賀以外で有名なのは松本や紀州藩ですね!

-よ、良かったです......。

-そういえば、忍者たちは「ござる」「にんにん」という言葉を本当に使用していたのですか?

山田いや、ないないない......(笑)そのイメージも「忍者ハットリくん」の影響でしょうね。

-ハットリくんの印象、強いですね!?

山田ふふふ、にんにん、とかね......。忍者だから「にんにん」で良いとは思うのですが......。話し言葉は記録に残っていませんが、「にんにん」とは言っていないと......思いますけどね......(笑)

-では、先生の見解としては、「にんにん」は、ナイと。

山田はい(笑)

-先生としては、アニメなどのキャラクターが「にんにん」と言っているのは、どういうお気持ちに......?

山田いや、イイと思いますよ! この前も国際忍者学会のZoom会議で、最後に皆で顔を画面に映して写真撮影することになったんです。その時の掛け声は「3、2、1、にんにん」でしたよ。

-掛け声、可愛いですね!? ......その時は山田先生が掛け声を?

山田ええ、そうです(笑) 写真を撮る時、忍者の世界では割と「にんにん」を使いますね。

-忍者の世界、素敵ですね......。

-忍者の身体能力について質問なのですが、実際、忍者はどれぐらいの能力が必要とされていたのですか? あと、どのような修行で鍛えていたのですか?

山田実は忍術書の中には、修行といった言葉はほとんど出てきません。むしろ、知恵についてだとか、「本を読め」だとか、頭脳に関することが多く書かれています。

-ほ、本を読め!?

山田でも、当時「木猿」、「小猿」と呼ばれる人たちがいて、猿のようにするする木や建物を登ることができる人たちはいました。それから忍術の一つとして、猿の毛皮を剥いで、それを被って屋根の上を移動する......というものもあったようです。当時、身体能力の高い人であれば、本当に猿のように機敏に動くことが可能だったと思います。今でいうパルクールのような。当時の平均身長が150cm、平均体重が40kgくらいだったので、非常に身軽だったわけです。また当時の日本人は一日中農作業に従事していたりだとか、歩き回ったりするわけですので、身体能力は現代の私たちよりも格段に高かったでしょうね。

-ということは、忍者が全く修行をしていなかった可能性もあるということですか?

山田そういうことになります。修行らしい事柄が出てくるものとしては、松本の芥川家文書がありますね。一日中歩き回ることが良い、と書かれています。暑くても寒くても、昼でも夜でも、高い山に登ったり、逆に谷に下りたり......ですね。1日あたり50~60kmくらいでしょうか。いや、忍者だったら、100㎞は歩いていたかもしれませんね。

-忍者、確実に現代人よりも高い身体能力を所持していますね......。

-次は忍者の食事事情について、質問です。忍者はどのようなものを食べていたのでしょうか? あと、職務遂行中は断食をしていたのですか?

山田まず断食についてですが、忍者はいつ敵地で相手と遭遇するか分からないので、何があっても対処できるように普段から1週間程度は断食できるように対策していたようです。

-1週間ですか!? 水は......?

山田ああ、水と塩は摂取していました。そうしないと意識が混濁してくるので......。

-そうなると「忍び」どころじゃなくなりますしね。

山田ええ。食べ物としては、やはり兵糧丸ですね。腹持ちも良いし、更にストレス緩和の役割も果たしていたようです。

-兵糧丸ですか! レシピは残っているんですか?

山田当時のものが残っていますよ。氷砂糖、朝鮮人参、はとむぎ、うるち米......こういうものが使われていたようです。

-なんだか、漢方みたいですね!

山田そうですね、中に生薬などが入っているのが特徴です。ただ、忍者だからといって普段から特殊なものを食べていたわけではないですよ。

-なるほど! 普通の食事もしつつ、特別な時にだけ食べていたと......。

-先ほど兵糧丸の効能にストレスの緩和があると仰っていましたが、忍者ならではの職業病って、あったのですか?

山田どうなのでしょう......(笑)具体的な資料は残っていないのですが、ストレスは抱えていたでしょうね。やはり常に死に直面している職業ですので。それから忍者は主君に命じられて謀略することもあるので、何を信じたら良いのか分からなくなる時も、あったかもしれないですね。

-忍者が、疑心暗鬼に?

山田ええ、「この人は本当に自分の味方なんだろうか? それともスパイとして送られてきた敵なのか?」みたいな。

-同僚を信じられないのって、辛いですね......。


ここからは、忍者の人生・キャリアについて聞いていきます。

-忍者って、かなり人生設計が組みにくそうなイメージなのですが......。

山田ふふふ(笑)

-彼らはいったいどういう経緯で忍者になっているのですか?

山田そもそも忍者に限らないのですが、江戸時代の社会というものは、親の仕事を子がずっと受け継いでいったんです。だから親が忍者だったら、子も小さい頃から忍者として生きていく......ということになりますね。

-子どもの忍者がいたのですね!

山田はい、仕事で役に立つのは何歳くらいからだったのかは不明ですが......。

-そういえば、忍者を育てる教育機関って、存在したのでしょうか?

山田先生

山田それは無いですね。「虎の穴」だとか、どこかで忍者を育てるというイメージは1960年代の社会背景が影響しています。

-なるほど、では先生にあたる存在が、親であったと。

山田はい、ですから秘伝といいますか、「家伝」になるわけです。それぞれの家の秘密を子孫に代々伝えていくわけですね。

-それって伝言ゲームみたいに、内容にズレが生じてきませんか?

山田多少はありますね。「もっとこうしたら良いだろう」と新たな道具が作られる、とか。

-ズレというよりは、代々アップグレードしていく......といった感じですね!
ということは、後の時代の忍者の方がより高度な技術を持っていたということですか?

山田いや、実はそういうわけでもなくて......。というのも、江戸時代になってくると、基本的に忍者は城下町に住んで、門番だとかの治安維持を仕事にするようになります。理由は、忍者が実際に情報収集したり火の術を使ったりした「島原の乱」のような、実戦が無くなっていったからですね。だから江戸時代には、警備の仕事しか残っていない。
必要に迫られると色々な道具が開発されていきますが、戦がないと道具の必要が無くなってくるので......。むしろ、時代を経るごとに忍者は衰退していきました。

-ああ、発展のしようがなかったんですね。つまり、忍者は武士という扱いになっていく、と?

山田はい。江戸時代からはそうなりますね。

-その時のお給料って、どこから出ていたのですか?

山田藩から出ていました。武士の名簿が残っていて、名前や仕事内容、あと給料がいくらなのか、といったことが書かれています。給料はそこまで高くないですね。

-えっ、命を懸けているのに、ですか!?

山田江戸時代になると、命を懸ける、ということは無くなっていくので......。あくまで門番、なので。

-逆に、戦国時代の方がお給料は高かったのですか?

山田いえ、当時は出来高払いだったようです。「この戦に勝てば、敵地にある甲冑や敵の落としたものを持って行っていいぞ」みたいな。

-そうなると、忍者って生計を立てるのがかなり大変だったのでは......。

山田そうですね(笑)

-当時、望めばどんな家柄の人でも忍者になれたのでしょうか? 家伝、というお話を先ほどお伺いしましたが、「養子になる」といった方法で忍者になれるものだったのですか?

山田養子なら、忍者になれますね。もちろん、基本的に当時「職業の自由」というものは無かったので、忍者になりたいからといって自由になれるわけではありませんでした。でも術を学びたいという人は結構いて、江戸時代には多くの剣術道場などが建てられていきました。剣術では忍術も併せて教えていることがあるので、そこに弟子入りして学ぶことができたわけです。

-忍者にも、会社における役職のような序列はあったのですか?

山田今の世間的なイメージは「上忍、中忍、下忍というシステムがあり、上が下を支配している」「逃げようとしたものを抜け忍と呼び、バレたら制裁が与えられる」というものだと思いますが、どれも作られたイメージです。これは日本赤軍の事件が関係しています。日本を暴力革命によって転覆させようという人たちが集まって、闘争が起きたんですね。そこから抜けようとした人が殺害されることもあって......そういった事件を、当時の人は皆知っているわけですね。これを忍者の作品に投影させていったのが白土三平 氏です。

-当時の時代背景が、忍者作品にまで影響したのですね。

山田はい。ですから、史実の忍者には「序列」というシステムはありませんでした。あくまで術が上手い人を「上忍」と呼んでいたようです。

-忍者の中に序列はない、とのことですが、役割分担はされていたのですか?

山田その辺はまだ分からないですね。ただ「忍び頭」というものがいて、何人かの忍び頭が下の忍者を統括する、というシステムが存在したことは判明しています。

-強いて言えば、それが上司と部下の関係性だと言える、と。

山田そういうことになりますね。

-忍び頭って、年功序列制......ですか? それともエリート忍者が選ばれていたのですか?

山田どうなのでしょう(笑)藩に仕える時に、忍者が「私はこんな術が使えます」とアピールした、という資料は残っていますが......。忍者って、自分の所属する藩が潰れた時に、他の大名に仕える必要が出てきますよね。なので「私の先祖は伊賀者で、由緒正しくて、このような術が使えます」と藩主の前で披露したわけです。

-それって、現代の用語で置き換えると「所属する会社が倒産したから転職活動しました。自己PR頑張りました」ということですか?

山田そうです。

-た、大変そう......。

-親が忍者だとしても、子に忍者の才能が無かった場合って、どうしていたのですか......。別の職業に就くことは可能だったのですか?

山田そうですね、昔は沢山子どもが生まれていましたから、親が忍者だからといって子どもも全員が忍者になっていた、というわけではないようです。子どもの中でも「特にこの子は器量がいいな」という子にだけ忍者職を継がせ、他の子は分家して、農業などに従事していたみたいですね。

学生広報員が持つ素朴な疑問の一つ一つに、丁寧に回答してくださった山田先生。そろそろ取材終了のお時間ということで、最後にこんな質問をしてみました。

忍者の道具

-研究者として、世間一般のイメージに対して「これだけは訂正したい!」と感じているものはありますか?

山田ああ~~......。外国の作品では、忍者が「暗殺者」として描かれていることが多いですよね。暗殺の仕事、全く無かったわけではないのですが、忍者って基本的には戦いを避けます。実際に戦うのは武士の人たちで、忍者の主な仕事は、戦いの前の情報収集です。情報を収集しておくことで、戦いの被害を最小限に抑えようとしているわけです。
ですから、忍者がアサシンだという認識はイメージ的にも良くないですし、史実としてもちょっと違うのかなあ、と。

-確かに、「暗殺者」だと響きが怖いですよね。史実の忍者が持つ格好良さも、もっと世間に広まっていくと良いですね!


今回の取材では、世間一般に浸透している忍者のイメージとは異なる、実在した忍者の世界を学ぶことができました。今後も新たな事実が発見される可能性の高い忍者の研究から、目が離せない......そう感じる学生広報員でした。山田先生、ありがとうございました!