斎王は何を食べていたのか?
はじめに

古代の人々が何をどのように食べていたかは、食生活学から見ても、食文化の視点から見ても、常に興味・関心の的であり、またこれらを明らかにすることは、今日ある我々の食生活の成り立ちとその歩みを解明するのに役に立つ。

斎宮歴史博物館では、多くの食器が発掘されていることから「器は語る700年」と題した展示を計画され、その計画に伴って、器には当然お料理が盛られたということから、今回、斎王の食事再現の話になった。

斎王の食生活と食事再現の試み

斎王の食事はおろか、平安時代の食事については文献による根拠が非常に乏しい。王朝文学においても、我が国では食べることは私的なことという道徳観によるのか、食事については触れられていない。

1)食材について
そこで、何を食べていたのかを明らかにするために、「延喜式」の「斎宮式」にある調庸雑物条、年料供物条、月料条などに見られる斎宮の食材を拾ってみる。

斎宮の食材

この他、今日の食材と照らしてみて、菜の類(大根、かぶら卒どの根菜、水菜や芥子菜のような葉菜や山野草類)、里芋、ずいきのような芋類などが想定できるが、延喜式には出てこない。これらは保存性がないので、税として収取されるものでなく、自前で生産していたと考えられる。また、斎宮は伊勢湾に面していると言っても過言ではないが、伊勢湾でとれる雑魚や貝類、海草などについても記載がない。これらも日常の食生活には用いられていたものと推定される。


2)
献立の検討
献立についても文献が少ないが、「類聚雑要抄」の巻1に永久3年(1115)7月21日に関白右大臣殿東三条移御(いしょう=引っ越しのこと)の御前物の台3本定めの条に、次のような献立が見られる。

そこで、これらの献立の中で、上記の食材から作ることが可能であるかを検討した。

献立の検討

そこで、再現する斎王の食事として、可能な食材と「類聚雑要抄」から、献立順序、盛りつけ台と共に、次のように考えた。

再現する食事

3)原材料と調理
調理の必要なものについて述べる。

調理

4)盛りつけと器
盛りつける器については、永久三年七月二十一日戊子 関白右大臣殿東三条へ移御御前物の台三本の定めによれば、箸や匙だけでなく、皿や酒坏まで銀製品であるので、象徴的な意味を持つ特別な饗饌であると思われる。今回もこれに準じ、すべて銀製(実際はステンレス製)の金属食器を用いた。

盛り付け

再現された斎王の食事
▲再現された斎王の食事


斎王の食事の特徴

今回再現した食事は、儀式用の特別な料理である。それにしても一同に並べると、調味料の皿も合わせ33皿になり、一人分とするには多すぎる。儀式なので斎王が箸をつけた後、皆で食したと思われるが、忠実が東三条殿に移徒した時の食事においても、東三条殿に移った後、最初に寝殿の南庇で家族とともに、台に載せた五菓を食し酒を飲み、その後東対の南庇にあったと考えられる饗座に移動し、供の公卿・殿上人と三献を汲み交わした。三献の後、寝殿に戻ると、ここで忠実と妻師子の前に御前物が供せられた。ただし、忠実の前に供せられたのは、土高杯十二本に載せられたもので、師子の前にも同様のものが供せられたという。今回も一同に並べたが、食する時刻や場所が同一とは限らないと考えると量が多くても納得できる。

また今回再現した食事では、果物以外に植物性(芋や野菜)の食材がないのが特徴である。これは儀式の食事一般の特徴であると考えられる、さらに伊勢湾で採れた新鮮な産物の他に、諸国から貢納品として、干物・塩漬け・発酵食品などに加工して運ばれたと思われる珍しい食材もあり、このことからも日常でないハレの食事すなわち儀式食だと思われる。逆に日常食は植物性食材で成り立っていたと考えられる。

また今回の献立に用いられた調理法は、生ま物、煮物、焼き物、揚げ物、汁物、発酵食品ありと多岐に亘っているが、既に当時から、今日広く使用されている調理法の原型が整っていたことに驚かされる。

また今日のように燃料や加熱器具が発達していなかった時代に、これだけの料理数を整える事は容易ではなかっただろうと想像すると、さすが貴族の食卓だと感心する一方で、生ま物の料理が多いのもうなずける。

なお、味付けは、一進に調味料が載せられていることからも理解できるが、現代のように調理の際に味付けすることは少なく、調味料を付けながら食し、食材の持ち味を嗜んだと思われ、和食の原点を見る思いがする。

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▲三進
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▲四進
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▲五進
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▲十二単の方も登場
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▲沢山の取材もありました

▲レプリカの作製
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