研究会の発足

“いつきのみや歴史体験館”の講座体験には、古代食づくりを扱ったものが多い。しかし、平安時代と同じものを再現するためには、作り手に当時の材料や分量、作り方などに関する深い知識が要求され、さまざまな点で試行錯誤を繰り返す必要が生じてくる。「古代食復元研究会」はそのような要求を背景に、食文化に詳しい大川学園の大川吉宗園長、三重大学教育学部の成田美代教授と博物館、体験館のスタッフをメンバーとして発足した。

斎王について
斎王と斎宮について

1)斎王とは

天皇に代わって伊勢神宮の神事に参加するために、天皇の即位に合わせて、天皇の娘や姉妹などの身内から選出(卜定と呼ばれる占いによって選ばれた)された未婚の女性で、歴史上記録によって確認できるのは673年天武天皇の代に任命された大来皇女から1333年後醍醐天皇の代の洋子皇女まで660年間続いた制度である。斎王は京都で約3年の禊ぎの期問を経た後、9月15〜17日の伊勢神宮の神嘗祭に参加するために、京から5泊6日かけて数百人の規模で伊勢に赴く。なお、斎王が任を解かれて帰京するのは天皇の代替わりの時である。


2)斎宮とは

斎宮の名称は、もともと古代中国で宮廷の儀式のための斎戒の場の意味で、秦・漢の時代から宮殿内に皇帝用の斎宮があり、わが国も天武天皇の代に記述されているという。

ここでは、天皇制ならびに伊勢神宮を維持するための組織と制度と考えられ、斎王が伊勢滞在中の公的・私的生活の場である。

公的生活には、「延喜式」によれば、斎宮寮と呼ばれる役所があり、膳部(かしわで)、炊部(かしぶ)、掃部(かにもり)、殿部(とのもり)、そして神事を司る主神司(かんづかさ)など13の司が記載されており、また私的生活では采女司にて乳母や女孺などによって進められていた。

斎宮の場所は一時、度会郡に移ったときがある他は、現在の発掘地周辺に置かれていた。

発掘により斎宮の内部は「方格地割」と呼ばれる碁盤目状に各建物が配列していた。

斎宮は1333年以降、斎王制度が挫折したため、朽ち果てるに任されてしまったが、江戸時代天保の頃から、発掘・再興の声が挙がり、幕末には山田の神官山田大路親彦が斎宮の復興を建議した。さらに明治から昭和にかけて多くの復興運動と共に三重県も保存に乗り出した。戦後昭和44年に住宅造成に関連して遺跡が発掘されたのを契機に、教育委員会による発掘調査が開始され、当時の状況が少しづつ明らかにされてきた。その都度、成果の報告と共に平成元年には斎宮歴史博物館が開館して、多くの歴史的遺産が展示されている。さらに平成11年度にはいっきのみや歴史体験館が開館して、わが国の古代の歴史や生活に触れる機会が創設され、歴史文化の学習・体験の環境が整えられてきた。

斎王の仕事と生活

斎王の最も重要な任務は天皇に代わって年3回伊勢神宮の祭に参加することであった。3回の祭は9月の「神嘗祭」、6・12月の「月次祭(つきなみのまつり)」で、これを三節祭と呼ばれていた。斎王が伊勢神宮で祭に参加するのは、御杖代(みつえしろ)としてである。御杖代とは、杖の代わりに神を案内する者のことで、天照大神を祭の最初に来臨のための儀式である。

その他の任務は2月の「祈年祭(としごいまつり)」(農耕作業の開始の合図)の祭祀で神郡(多気・度会の神宮領)に幣串(へいはく)を分配したり、11月の新嘗祭、6・12月の大祓などの神事、定期的ではない水や門、建物の祭りも執り行った。

年中行事としては、正月元旦、1月7日七種粥、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日重陽の節句などがあり、これらの年中行事とその儀式などを併せると、公式な行事が絶え間なくあり、ひとつが終わると、次の準備にと常に斎宮の中は忙しかった様子が偲ばれる。

また斎王の私的な華やかな生活は源氏物語をはじめ、伊勢物語や更級日記などの王朝文学に読みとることが出来る。

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