東アジアの国際環境協力戦略と日本の役割

米本昌平
(三菱化学生命科学研究所科学技術文明研究部長・市民フォーラム2001理事


I. 自然科学と国際政治の合体

 21世紀の課題とされる地球環境問題の大きな特徴の一つは、自然科学の一分野である地球科学研究と国際政治の枠組みとが融合してしまったことである。これまで自然科学は政治とおよそ関係ないものと思われていたから、これは大きな変化である。例えば、気候変動枠組み条約という条約がある。1995年にベルリンで第一回締約国会議が開かれたこの条約は、地球温暖化に対処する目的の下にできあがったものである。

 国際条約は、その冒頭でそこで使われる用語の定義を行うのだが、この条約では「気候変動」とか「吸収源」、「発生源」という言葉が定義されている。言葉の内容はここでは重要ではないが、これらは皆、地球科学の領域で使われている学術用語なのである。学術用語が条約の言葉遣いの中にそのまま繰り込まれている事実は、地球科学研究が対象にしている地球そのものが条約によって守られる対象になったことである。それは逆に考えれば、人類の活動全体が地球レベルの自然にまで影響を与えるものになってしまったこと、そして、これに世界全体が対応していかなくてはならなくなったことを意味している。

 このような地球環境問題が、国際政治の主要課題となった時期は1980年代の後半であり、それは冷戦が解体していく過程と連動していた。1988年12月の国連総会で当時のゴルバチョフ・ソ連書記長は、50万兵力の一方的削減を含むデタント演説を行った。これが引き金となって翌1989年には東欧革命が起こり、ベルリンの壁が崩壊する。一方、同じ1988年未の同し国連総会でIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の設定が決まったことは、当時あまり注目されなかった。IPCCとは、地球温暖化についての科学的な予測やその影響・対応策について、最新の科学的知見を集約する料学者の作業グループである。

 1990年秋に、このIPCCは第一次報告を発表し、これに続いて条約交渉が開始された.このわずか一年半後の1992年5月にこの気候変動枠組み条約が妥結し、続く地球サミットで各国首脳がこれに署名したのである。これだけ大きな条約であれば妥結までには何年も何十年もかかるのが普通なのだが、これはまったく異例の速さであった。地球温暖化問題でこの時期とりたてて交渉を急がせる科学的発見があったわけではないのであるから、この条約を成立させた要因は自然科学の外、つまり国際政治の側にあったことになる。もちろんそれは、冷戦という最も重要な国際関係の解消であった。

 気候変動枠組み条約の目的は条約の言葉によると、「気候系に対する危険な人為的干渉を防止する水準で、大気中の温室効果ガスの濃度を安定化することである。そのような水準は、生態系が気候変動に自然に適応でき、食糧生産が脅威を受けないことを確保し、また経済発展が持続的な方法で実現されることを可能にする、十分な時間的枠組みのなかで達成すべきである」(第二条)という壮大なものである。つまりこの条約によってわれわれ人類は、地球温暖化の被害を全地球的にみて一定の限度内に抑えるため、二酸化炭素なIPCCは1995年に第二次報告をまとめたのだが、そこで毎年1.5ppmずつ増えている大気中の二酸化炭素の濃度を一定の水準で安定化きせるためには、今後排出シナリオをとらなければならないのか、その未来図を描いてみせた。かりに今後300年かけて、大気中の二酸化炭素濃度を産業革命直前(275ppm)の2倍の550ppmに抑えさせるという一見ゆるやかな目標をとるとしても、IPCC報告では、21世紀に入って間もなく、人類は二酸化炭素の総排出量を頭打ちにし、やがて現状を大幅に下回る水準に抑えなくてはならない。今後、数十年先には、人類全体が革命的な省エネルギー政策をとらなければならないことになる。


II. 重みを増す環境NGO

 地球環境問題のもう一つの特徴は、国際交渉に対して政府代表以外のNGO(非政府組織)が影響力を与える度合いが、飛躍的に増したことである。国際交渉や国連会議の外側でNGOが集合を開いて、国際合意に影響を与えようとしたのは1972年の国連人間環境会議が最初だといわれる。これ以降、軍縮・人権・人口・女性問題・環境な重要な国際会議では、このような形態が次第に一般化していった。ただしグリーンピースや環境防衛基金(NRDC)な環境NGOが連携して、規制強化のためロビーイングを行いだしたのは1980年代未に、オゾン層保護のためのウィーン条約=モントリオール議定書の交渉にかかわったのが最初と言われる。それが1992年の地球サミット(国連環境開発会議)を機に、NGOは国際合議で無視できない役割を果たすようになった。


III. 酸性雨外交からの教訓

 国境を越えた広大な領域の環境問題の解決をめざす外交を「環境外交」と呼ぶが、それは欧州における大気汚染や国際内湾・国際河川の汚染問題を扱った外交がもっとも近い。その一つの特徴は、「外交の科学化」という事態がでてきたことである。

 北欧諸国は長い間、英国やドイツの工業地帯から飛んで来る大気汚染物質に悩まされてきた。1972年の国連人間環境会譲がストックホルムで開かれたのも、悪化する酸性雨の被害をなんとか国際討議の場に乗せたいというねらいがあった。しかし、主要国の首脳は公害問題をあくまで内政の失敗とみなし、北欧諸国の提案には冷淡であった。だがこれをきっかけに欧州における硫黄酸化物の長距離移動の研究が始まった。そして国連欧州経済委員会で、そのための条約の交渉が始まり、1979年11月に合意に達し、33か国とECが長距離越境大気汚染条約(LRTAP条約)に署名した。これに先立って、1977年に「長距離移動大気汚染物質モニタリング・欧州共同プログラム」(EMEP)という科学研究体系が動きだした。

 EMEPの第一の目的は、各国政府への大気汚染物質の排出や国境を越えた移動・沈降に関するデータを提供することであったが、同時にモデル研究も行われた。欧州全域をカバーした大気汚染のコンピュータ・モデルは、ケンブリッジ大学のACIDRAIN、国際応用システム研究所(IIASA)のRAINSなどが開発され、その計算によれば北欧諸国が被害国であるのは明らかであった。しかし、欧州主要国はこの結果を無視し続けたのである。転機は1981年秋であった。ドイツの週刊誌「シュピーゲル」が酸性雨の影響でどいつの森が枯死しているという特集を組んだことで、西ドイツの雰囲気は一変した。これをきっかけに酸性雨問題は、スカンジナビア諸国の問題ではなく、欧州全体の森の運命の問題になった。当時の西ドイツは、新設の火力発電所に対し排煙脱硫装置の設置を義務づけることを決め、また、条約が1983年春に発効したため、西ドイツはこの条約とECの環境政策を介して、大気汚染対策の強化を働きかけ始めた。オランダとデンマークがこれに同調し、一元的な規制を拒む英国との綱引きが始まる。

 しかし、西ドイツのこのような政策変更を促した大きな要因は、実はバーシング、ミサイル配備問題であった。1983年秋に西ドイツ議会がミサイル配備を承認すると、ジュネーブで核軍縮の交渉に当たっていたソ連代表は席をけって帰路してしまった。西ドイツ政府は険悪になった東西関係を修復するために、1984年4月、関係国の政府代表をミュンヘンに招き、酸性化問題の多国間会議を開いた。この場で、硫黄酸化物の30%排出削減が東側に提案された。こうして1985年にヘルシンキ議定書が署名され、各国は1993年までに1980年比で30%以上の硫黄酸化物の排出削減をめざすことになった。このうち10か国は1995年までに50%以上の排出削減をめざすことを一方的に宣言した。このことは外交的成果によって排出削減が進んだのではなく、各国の国内事情で削減が先行したのが実情であることを暗示している。しかし、それまでの外交交渉の常識をくつがえすこのような姿勢は、その後の欧州諸国によるフロンや二酸化炭素の一方的排出削減の宣言へとつながっていった。成功物語とみえる1980年代欧州の酸性雨外交も、冷戦下ではその主要な動因は東西交渉の副産物であった。

 その後、冷戦解体が進む中、交渉は活性化した。なかでも1994年のオスロ議定書は、硫黄酸化物排出の一律規制を全面的に書き改め、地域ごとの生態学的被害の水準を基本に置く画期的なものとなった。1985年の30%削減議定書は科学的根拠のない冷戦下の政治的産物であったのだが、オスロ議定書は、長年のデータの蓄積も豊富で、科学研究と国際条約との究極の融合に近いものになった。オスロ議定書は順調に批准が進んでおり、1998年8月発効した。


IV. アジアでの環境外交は可能か

 欧州の体験からの重要な結論は、第一に、冷戦下では環境外交は辛くも先進国間で成立するものであったらしいこと、第二に、環境外交が成立するためには、信頼にたる科学データを各国が共有できる観測体制の整備が不可欠だということである。これを東アジアに当てはめてみると、わが国がこの地域で環境支援を外交の基本としようとするときの困難がみえてくる。発展途上国は空気を汚したくて汚しているのではない。むしろ大気の汚れ具合は、それぞれの経済の発展段階に応した投資の優先順位を表わしているのであり、発展途上国では環境保全への投資の優先順位は著しく低く、先進社会になるほど高くなることを意味している。

 日本がアジア地域で環境対策を支援するということは、日本国内に豊富にある環境保全のための技術・資金・人材を発展途上国に還流させようとすることである。それは、日本が技術や財を渡して、相手国の社会にとっては現在ではまだ必然性のない環境投資の順位を繰り上げて実施してもらうことである。先進社会では当然視されている、環境保全という価値を相手国に受け入れてもらうことである。資金を提供するから脱硫装置の設置をと言っても、それだけの金をつけてくれるのであればもう一基発電所がほしい、というのが発展途上国側の本音である。つまり一般に発展途上国への環境支援は、広義の内政干渉に近いことを確信犯的に遂行しなければ実現しえないことになる。加えて、東アジア地域の政治経済の実態は実に多様である。列挙してみると、準先進国の韓国・台湾、中国の一部となった香港、巨大な途上国で社会主義国の中国、市場経済移行中の先進国ロシア、市場経済移行中の途上国モンゴル、そして北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)がある。関係国の多くが先進国である欧州とは全く違う、複雑な地域に日本が環境支援をしてゆこうというのである。


V. 研究者共同体の構築を

 一方、国際関係論では、知的所有権や情報通信など特殊な国際交渉が成立するためには、関係国を横断した専門家集団が存在していることが不可欠であることがわかっている。各国代表とは独立に、自由な立場から重要課題を研究しその成果を共有する専門家集団が国際的に存在してはじめて、ある特殊な外交交渉が成立する。同時に専門家集団が各国の内政に影響を与えることになる。そして、地球環境問題もまた自然科学研究と国際政治とが融合した、特殊な外交という性格を強くもっている。科学的な観測体制を構築し、関係国の専門家の能力開発が不可欠であることはもう明らかであろう。つまりアジアにおいて環境外交を展開するためには、その第一歩として広域の環境問題研究のための国際共同プログラムを開発することがまず第一なのである。日本と近隣諸国との価値観の落差と、関係国の環境問題への優先順位の違いを埋め合わせるためには、日本が資金の大半を提供してでも東アジア全体を覆う共同研究プログラムを、越境大気汚染・閉鎖海域汚染・生物多様性な中国から酸性雨の原因物質が飛んできているから、中国の大気汚染対策に日本が資金と技術を提供すべきだという議論がよくある。しかし中国政府が、国内に深刻な大気汚染問題を抱えていることを認めることと、酸性雨対策で日本から大々的に資金を受け入れることとは、実は別問題である。かつて北欧諸国がドイツやイギリスに向かって酸性雨被害の証拠を突きつけても、それだけでは何も動かなかった。欧州の歴史に当てはめると、現在はEMEPがまだなかった1970年前後の状態に相当する。

 もしかすると、このような国際共同研究はこの地域の環境改善にただちには結びつかないかもしれない。にもかかわらず、広域の環境研究を関係国に提案することは外交上重要な意味を持つ。東アジアにはなお冷戦時代の残査が残っており、環境保全というどの国も反対できない国際的な大義を掲げて新しい話し合いのテーブルを提案することは、この地域の安定化に寄与することになる。東アジアは経済成長が著しく、これに伴って大気汚染が進行し、二酸化炭素の排出も急増している。この点、ロシアは先進国としての価値観を保持しており、シベリアの環境破壊に対する支援は他のアジア諸国より受け入れやすいはずである。冷戦後のいまは、広域の環境保全を目的とした国際協力こそ地域の安定の基盤であると認識し、その実現をめざすことを日本のアジアに対する新しい関与のあり方だと明示してよい時に来ている。
SYMPOSIUM
THESIS
OUTLINE