Introduction

 アフリカには現在53カ国の国がありますがそのほとんどが、1887年の欧米のみの参加した、ベルリン会議で決められた国境線に従って、植民地時代の負の遺産を受け継いたまま1960年代に独立をしました。その後冷戦の影響を大きく受けてきました。アフリカは今まで、アフリカ大陸に住むアフリカ人の意志とは無関係な、外からの力で動かされてきたと言っても言い過ぎではありません。そして1997年の今も、我が祖国ザイーノレは、32年間これも欧米の出来損ないの操り人形であったモブツ大統領が統治していましたが、アメリカの支援を受けたカピラの率いる反政府軍に追い出されました。


 民族抗争、貧困、環境破壊、政治的混乱、これらのアフリカにある問題は、前に述べた長い歴史の結果でもあります。しかしその長い歴史の中で、アフリカの人々が多くのことを学んできたことも事実です。


 アフリカの真の発展を考えるとき、アフリカが外からの力ではなくそこに住むアフリカの人々の手による、アフリカ人自身が主人公となる発展を考えなければならない。これが私の提唱する「アフリカ村おこし運動」SAVE AFRIKA PROJECTの基本理念です。


 さらにもう一つの基本理念は、農村にターゲットを当てている点です。アフリカの人口の70〜90%はアフリカの農村部に住んでいます。これらの田舎の人々の力と田舎の可能性を生かすことこそが、アフリカの真の発展につながると考えています。


 さらにこの発展は、アフリカ人自身だけに利益をもたらすものではありません。21世紀を考えるとき、人類はどこに住んでいても、地球規模の世界に直接関わって生きていかなければならないのですから、アフリカの発展も、アフリカが世界の「お荷物」ではなく現在の先進国と対等の関係を持つ、地球に貢献できるパートナーとなるための発展を考えなければならないはずです。

SAVE AFRIKA PROJECTのスタート

 1983年京都大学大学院へ国費留学生として日本に来てから、アフリカと日本をつなぐため、アフリカ展、ニュースレターの発行、料理教室、アフリカ理解講座、アフリカンダンスパーティ等いろいろな活動をしてきました。1990年7月、それまでの活動を通じて得た友人たちの協力の下に「アフリカ村おこし運動」(SAVE AFRIKA PROJECT)をスタートさせました。


 1991年まず、日本の人々14名と一緒にケニヤ、ブルンジを訪れ現地調査をしました。アフリカの問題は何か。アフリカ人自身の意見、問題意識、解決方法は何か。そしてその後更に一人でザイール、タンザニアに行き、「アフリカ村おこし運動」第一番目のモデル地区を探して多くの村々を回りました。特に自分の祖国のザイーノレでは、シャバ州カヤンバ郡の30の村のうち20の村を回りました。その結果@人材が豊富なことA農業に適した地域であることBまだ環境が著しく破壊されていないこと等の条件を考慮し、第一番のモデル地区をザイール・シャバ州・カヤンバ郡と決めました。


 この現地調査でアフリカの多くの国が抱える問題が見えてきました。


 Introductionで述べたようにまず第一に植民地と冷戦の間、アフリカはアフリカ人自身のための国ではなかったのです。ヨーロッパや先進国に資源を供給し、余った生産物を消費させられる大陸でした。資源獲得戦争のために戦略上の理由で多くの国のリーダーが利用され、そこからザイールのモブツ大統領のような独裁者を生みました。


 ODA援助も、従来の援助の多くが真にアフリカの人々に注目して行われたものか疑問です。先進国の企業によって、先進国に資源を供給するための開発に対する援助がいかに多かったことか。その上アフリカ側の政府、企業のマネジメントも未熟でした。大学教育を受けた国造りをしなくてはならない人材の多くが、エリートとして、自分の国のためではなく、自分自身の利益と先進国のために働く「ムズング」(スワヒリ語で白人)になってしまったのです。


 ODA援助はその上、アフリカに借金という形で残ることになります。その援助によって生まれた借金を返済するためにアフリカの国々は、GNPの大きな部分を費やします。


 おまけに開発援助で開発された鉱山資源、農産物資源は先進国側の決めた価格で取り引きされ、アフリカを潤すことはしません。少ない政府の予算は都市部を維持していくだけで消えてしまう場合が多いので、農村部は荒廃し、人々は田舎を捨て町に移ることになり、町の荒廃と田舎の荒廃が同時進行の形で進みます。アフリカの人々の生活はいつまでたってもよくならず、政治的混乱、治安の悪さ、環境破壊、飢餓を生む悪循環を繰り返します。


 農村部、都市部のそれぞれの問題をもう少し詳しく述べます。農村部では政府の予算が回ってこないために、道路、橋、学校等のインフラストラクチュアの整備がほとんどなされていません。道路、橋が整備されていなければ、田舎で作った作物は市場に運べないことになります。そのため村の人々は自給自足の農業をして生活しています。


 自給自足の生活は食べるだけのためには困りません。しかしどんな田舎の生活でも人々は貨幣経済の中で生きているのです。子どもを学校に通わせる、病院に行く、服を買う、これらの問題が現金を持たない農村部の人々には大きな壁となって彼らの前に立ちふさがるのです。そのため人々は少しでも現金収入を得ようと、焼き畑をして輸送の楽なように、少しの作物でも付加価値の高い農作物を作ろうとします。バナナの代わりに米を、キャッサバの代わりに豆を。高い値段で売れる作物を作るために行う焼き畑の面積は年々増加して、これがアフリカの気候に大きな影響を与え始めているのです。


 私の専門は気象学、特に熱帯地域の気象についてですが、専門分野からみてもここ30年間のザイール盆地の平均気温が上昇していますし、雨量も少なくなっています。また雨季が短く乾季が長くなるという砂漠化の兆候も見られます。これは、ただ単にザイール盆地の気候の変化という問題だけではありません。ザイール盆地の気候も他の地域の気候と同様に、お互いに地球の気候に連動して関係し合っているということを忘れることはできません。


 自給自足の農業では農業技術はだんだん廃れていきますし、過剰な焼き畑農業は環境を破壊します。農村の生活は、周りの社会の貨幣経済が進めば進むほど厳しさが増します。


 人々は田舎での生活をあきらめ都会へと出ていきます。しかし都会での生活も思ったほど楽ではありません。都会にはスラムができ生活環境も自然環境も破壊し始めます。今アフリカの都会の周りの森は、ほとんど消えてしまっています。都市の人口が増え、電気やガスのインフラストラクチュアが整備されないため、人々は都市の周りの森を切って料理に使ったりまた、建設資材の需要が増えるため、急速に森が消えていっているのです。