みえアカデミックセミナー2017「本能寺の変-新史料でなにがわかったのか-」を開催しました

2017年08月23日

8月19日(土)、「みえアカデミックセミナー2017」において、教育学部の藤田達生教授による講演「本能寺の変-新史料でなにがわかったのか-」を開催しました。

「みえアカデミックセミナー」は、毎年三重県総合文化センターを会場に、県内15校の高等教育機関の特色を活かしたバラエティ豊かな公開セミナーを開催しています。セミナーは7月11日(火)に始まり、8月24日(木)まで「健康・医療・福祉・歴史・文学・子育て・教育・機械工学」など、各校の特色を活かした様々なテーマで講演が行われました。

藤田教授は日本史が専門分野で、日本近世国家成立史を研究テーマとしています。今回は本能寺の変をテーマとした講演が行われました。予約の段階で満席となり、211名の参加者がありました。

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本能寺の変は織田信長が京都本能寺に宿泊した際、臣下である明智光秀が起こしたクーデターとされています。しかし、その理由については史料等の不足のため様々な説があり、その真相は謎に包まれています。

天下統一の最終段階にあたり、織田信長の西国支配方針が豊臣秀吉と三好康長の派閥を中心とすることが決定しました。このことは長年に渡って四国政策を担っていた光秀と長宗我部元親の派閥の敗北を意味し、更に長宗我部への攻撃まで計画されることになりました。
これについて、2014年6月23日、岡山市の林原美術館にて「石谷家文書」(全3巻)が発見されました。この文書は本能寺の変勃発の10日前に光秀が長宗我部へ宛てた手紙です。手紙では光秀が「いよいよ妥協の余地はなくなってしまっています。もはや、戦いの時が到来したのでしょうか。当方は、長年に渡り信長のために粉骨し、まったく反逆する気持ちはないのに、思いもよらない仕打ちにあうことは、納得できないことです。(現代語訳、同文書から一部抜粋)」と述べています。

このことから藤田教授は、本能寺の変は光秀の個人的な理由による「単独謀反説」ではなく、天下統一の最終段階にあった織田政権の専制化が招いた重臣間の派閥抗争の帰結とした「四国説」を提唱しました。

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藤田教授は「聡明な光秀が一時の感情に流されて謀反を起こすとは考えられない。更に戦国時代は合議制であったため、突発的な謀反には周囲の賛同を得ることができず、兵隊を確保することができなかっただろう。謀反を起こすに足る、周囲が納得するような理念があったはず」と述べました。

その理念とは、光秀と長宗我部の冷遇の他に、織田信長の反朝廷の思想を挙げ「織田信長は天皇を介さず、直接天から権力を預かろうとした。光秀はこの思想に反抗し"日本をあるべき姿に戻す"ために謀反を起こしたのではないか。新史料からは、室町幕府の復興を掲げたことがわかる」と解説しました。

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講演の最後には、織田信長に対しては「一門・近習中心の独裁体制に傾きすぎたので天下統一はできなかった。しかし、国づくりの形を整えマニュアル化し、能力本位の人事を行い優秀な人材を見出し、日本を一気に近世化した功績はとても大きい」とし、まとめとして「現代の我々の価値観で当時の出来事を視てはいけない。歴史研究において最も重要なことは、当時の常識や思想を研究し、理解すること」と締めくくり、講演は終了しました。

参加者の方からは「本能寺の変と織田信長に対する考え方が変わった」、「戦国時代の人間も現代の人間も同じ人間であると感じた」、「本能寺の変は有名だが、知らないことばかりだった」等の感想があり、盛況のうちに講演は終了しました。
来年の「みえアカデミックセミナー2018(仮)」もご期待ください!

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