野島善雄記

津の中心はどこでしょうか。

県都津としては、県庁のある津駅周辺、津市民にとっては大門が津の真ん中と言えるでしょう。そしてこの二点を結んで23号線の両側に津の街は広がっているのです。現在の行政区画では、西は23号線のセンターパレスより愛知銀行まで、東は23号線バイパスに至り、北は観音裏通りより、南はフェニックス通りまでが大門です。歴史と共に大門の区画も動いています。


1608年津城主に藤堂高虎公(32万石)がなられ、市街を整備され「城下町」として発展しました。高虎公は伊勢街道(参宮街道)を市内に引き入れました。この時の町を北からたどると、小川(粉川)中山、町屋、江戸橋、部田、四天王寺前、万町(よろずまち)、北町、東町、大門町、宿屋町(しゅくやまち)、地頭領町(じとうりょうちょう)、分部町(わけべまち)、伊豫町(いよまち)、立合町、閻魔堂前(えんまどうまえ)、八幡(やわた)、藤枝、垂水(たるみ)、藤方、高茶屋(たかじゃや)、池田島貫(いけだしまぬき)と連なっています。

江戸時代の伊勢参りは信仰というより庶民に許された只一つのレジャーでした。その時代すべての道は伊勢に通じており、三重は情報交換、情報発信の基地でした。この情報力が伊勢商人の江戸における地位につながったのです。城下町の経営にも力が入れられ、商人に各種の保護政策がとられ、大門町、宿場町、地頭領町、分部町などには大商人が軒を並べました。伊勢第一の繁盛をし、江戸にも伊勢商人として進出したのです。この時大門は交通の要所であり、津観音の「寺内町」(じないちょう)であり、「宿場町」ともなりました。本陣(ほんじん)[大名・公家等の宿舎]は今の百五銀行大門支店の所に置かれていました。旅籠屋(はたごや)[一般の市民の泊まる宿屋]は80軒余りで、北町から大門町、地頭領町に立ち並び、伊勢参宮の旅人は、1684年の記録では5日間で1万人近くが泊まったとあります。

明治になり日本で10番目に市となった津市には、大門に県庁が置かれ、その他にも市役所、警察、学校などがありまさに市の中心でした。大正に入りスズラン灯が設けられ、観音寺境内には「大栄座」「曙座」(現東宝劇場)などがあり、市民の娯楽場でもありました。

昭和11年5月1日大門百貨店(戦後に松菱、この地は現在大門パチンコ)が開店しました。鉄筋コンクリート5階建てで堀川美哉市長のテープカットに始まり、入場者は11万人を突破、2日目3日目には益々盛り上がったと報じられています。市内商店会は協賛売り出しを催し、百貨店と小売店の摩擦は全くなかったようで、百貨店の開店が多いに期待されていたこと伺えます。丁字屋(ちょうじや)のソウル出店など当時は「グレート津市建設構想」も出るほどで、威勢があった時代です。当時三重は一等県でした。


三重会館からセンターパレスへと大門を取り巻く歴史は津市民の歴史でもあります。今も観光バスのガイドは「左手には津の一番の繁華街大門通りがございます」と23号線を通っています。大門には昼の大門と夜の大門とがあります。県都津市は人口16万人ですが、昼間人口は30万とも言われています。30万から16万を引いた14万人の方々は津にとって大切なお客様でもあります。都市にとってアフターファイブは大きな収入源です。夜がその都市の人気や評価まで決めてしまうといってもいいでしょう。喜ばれて収入が増えるのはいいことなのですが、現在の津にはその魅力が薄いようです。

どうすればいいのでしょうか。県都津市は、三重県内の小中学生さんに見学観光バスを仕組み、まず大門へ、そして県庁、ヨットハーバーへと招待し、PRしてはどうでしょうか。(名古屋−江戸橋)定期券の県外在住三重大生さんも入学の日、大門に来られるといいでしょう。大学生協で何でも買い物を済ませ、地域との心の繋がりを失ってしまってもらっては困るのです。地域あっての大学であり、大学あっての地域ではないでしょうか。津出身琴風の大相撲優勝、双羽黒の横綱昇格の時も凱旋パレードは大門でした。大門は津の人達の心であり、津を通っていった人の思い出となってほしいのです。もし大門が津からなくなってしまったら津はそれこそ何なのでしょうか。リフレッシュ津、リフレッシュ大門!再建への努力が必要とされています。

(津観音寺大宝院、大門商店会連合会、津商工会議所、津市教育委員会、三重県高等学校社会科学研究会、三重歴史研究会の資料を参考にさせていただいています。)

大門ロゴ