- 学長ブログ ある地方大学長のつぼやき -

三重大学長の「つぶやき」と「ぼやき」のブログです。

「天下をめし取る」
~「国立大学病院データベースセンター」の生みの親、武澤 純教授の遺志~

   一日中雨になった5月10日、名古屋大学教授の武澤純さんの医学部葬が名古屋大学のシンポジオンホールでおこなわれました。私は友人の一人として弔辞をのべる栄誉にあずかりました。

takezawa1.jpg    武澤さんは救急・集中治療医学講座の教授として、教育指導や病院運営のかたわら、院内感染、医療安全、診療機能評価など、わが国の病院医療についての重要な課題に取り組まれ、最近では、国立大学病院の診療機能、教育・研究機能、財務・経営などあらゆるデータを集積し分析する「国立大学病院データベースセンター」の設立のために奔走されました。

   また、国立大学協会の病院経営小委員会のメンバーとして、委員長の私といっしょに4年間にわたり、国立大学病院の経営問題に取り組んでいただきました。経済財政諮問会議などが押し進めようとしている新自由主義的改革では日本の医療はよくならないというのが、武澤さんの信念でしたが、一方では大学病院に対して、データにもとづいた改革を進めるべきであると、歯に衣を着せない意見を主張しておられました。

   武澤さんは理想に向かって、どんどん行動を起こすタイプで、何かとぐずぐずしている私にしょっちゅうハッパをかけていただきました。そして、マスメディアの活用の大切さについても常に強調しておられ、私に「文芸春秋」に記事を載せろというのが口癖でした。私は昨年の7月20日の朝日新聞の「私の視点」欄に投稿させていただき、大学病院に対する交付金の大幅な削減によって、学術の国際競争力の低下と地域医療の崩壊が同時に進んでいることを訴えました。また、武澤先生のご御存命中には約束を果たせませんでしたが、文芸春秋の5月号に私の記事がのったことは、4月18日のブログに書きましたね。

   わが国の大学病院のあるべき姿はどういう姿なのか?大学病院自らが何を努力し、どのように国民や政府に理解と支援を求めたらいいのか?武澤さんと二人で夢を語り、議論し、行動した4年間でした。05年の秋には、国立大学協会からオーストラリアの医学部・大学病院の視察に一緒に行ったことも懐かしい思い出です。

   翌06年の夏、食道がんが見つかり手術をされ、その後、化学療法や放射線療法を続けられました。昨年の後半にはさすがにげっそりとしておられましたが、理想の達成に向かって走り続ける武澤さんのエネルギーは少しも低下することはありませんでした。

takezawa3.jpg    今年のお正月に、武澤さんご夫妻は厳島神社にお参りされ、そのときのおみやげに“しゃもじ”を病院経営小委員会のメンバーに届けていただきました。そこには、武澤さんの私へのメッセージが書かれていました。「豊田先生♡、“天下をめし取る”にかけて、これで飯(めし)をたべて今年もがんばって下さいネ」

   その後、急激に体調が悪化し名大病院に入院されました。1月18日に文部科学省にて、高等教育局の審議官や課長の皆さんに、大学病院問題についての私の考えを説明したあと、それを武澤さんに報告するために名大病院に立ち寄りました。その時の「先生、天下をめし取れそうですか?」が、私へのご遺志を託された最後の言葉となりました。

   武澤さんが執念で作り上げた「国立大学病院データベースセンター」は、これからのわが国の医学・医療の質を向上させるために、また、国民に大学病院がいかに大切な存在であるかをご理解いただくためにも、不可欠な役割を果たすことになると思われ、なんとしてでも軌道に乗せなくてはなりません。

   それにしても、わが国の大学病院が、そしてわが国の医療がいったいどうあるべきで、何をどうすればよいのか、大所高所から真剣に考えている人が、わが国にいったい何人いるのでしょうか?私どもは数少ない貴重な人材を失いました。

   最後に、武澤さんが私ども友人にあてた最後のメッセージをご紹介させていただきます。「家族のことが気になりますが、一足お先に未来のステージに向かい、次の学会発表の準備に取り掛かります。・・・皆様のお力で、これからの医学界の改革がなされることを信じています。頑張ってください。」

   武澤先生、残された私どもは、日本の医学・医療を良くするために一生懸命がんばります。天国からいつまでも私どもの尻をたたいてくださいネ。

[武澤純先生の主なご略歴について]
武澤さんは大阪大学の私の2年上の先輩で59歳でした。
昭和23年北海道にて出生
takezawa4.jpg     49年大阪大学医学部卒業
    49年大阪府立病院
    50年大阪大学医学部附属病院医員
    51年米国国立衛生研究所研究員
    53年米国ディーク大学医学部内科研究員
    53年大阪大学医学部助手
    60年同大学医学部講師
    63年名古屋大学医学部附属病院講師
平成 5年同大学附属病院助教授
     7年同大学教授
   20年3月1日逝去